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【書評・感想】『密やかな結晶』を読んで、記憶と物語について考える

小川洋子さんの『密やかな結晶』という小説を読み終えた。

20年以上前の作品なのですが、近年になって海外でも広く読まれるようになり、2020年にブッカー国際賞の最終候補作にもなったようだ。 昨年になって新装版となって文庫で出版された。

新装版 『密やかな結晶』

英語版 ”The Memory Police”

The Memory Police

The Memory Police

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英訳版は、「記憶狩り」を行う”秘密警察”がタイトルになっている。 事実とそれに基づく記憶が軽んじられる「ポスト・トゥルース」時代の文学としても読まれているという。

記憶を不条理に奪われていく世界において、人は生きていくことが可能なのか。 自らの記憶体験と重ねながら、読んでみることにした。

登場人物とあらすじ

主人公である”わたし”は、ある島の中で小説を書いて暮らしている。 この島は”秘密警察”が取り仕切っていて、ある日突然、概念の消滅が起きる。消滅が起きてしまったら、人々はそのものの記憶を捨て去るしかない。

“わたし”は母親と暮らしていたが、母親は消滅が起きても記憶を消失しない人だったので、秘密警察に連行され、幼い頃に離れ離れとなった。

いまの“わたし”には大切な人が二人いる。 ひとりは、毎日散歩をしている時に言葉を交わすおじいさん。彼もまた記憶狩りが起こると、記憶が消滅する。 もうひとりは、私の書く小説の編集者であるR氏。彼は記憶狩りがあっても消滅に遭わず、記憶を保持し続けることができる。

しかし、R氏は母親と同じように、いつか連れ去られる運命にあるため、わたしはおじいさんと協力して彼を自宅の一室にかくまう計画を立てる。

島では次第に”秘密警察”の取締りが厳しくなり、あらゆる概念の消滅が続いていき、島の人たちにとって大切なものが次々と姿を消していく。 果たして三人は、消滅を繰り返す島で、どのような結末を迎えるのだろうか。

記憶は時間をうまく測れない

物語の行方からは一旦離れて、この先は記憶について考えてみる。

人間は、起きた出来事のすべてを記憶できるわけではない。 私たちの生きる世界では、小説の設定のように「消滅」は起きなくとも、必要でない記憶はやんわりと姿を消していく。

例えば、5年前に家族や友人と行った旅行のことを思い返してみる。 その時に撮った写真や、旅行中に買ったお土産などは手元にないものとする。 2泊3日の行程があったとして、そのうちどれだけの場面を覚えているだろうか。

24時間×3日分もの時間があったはずなのに、思い出される場面はほんの一部だ。 全体として、楽しかった、たくさん笑った、切なかった、などと総括をすることができたとしても、切り取られて想起される場面は限られたものだ。

行動経済学者ダニエル・カーネマンは、「経験と記憶の謎」と題したTEDスピーチで、この話題に触れている。 私たちには、「経験する自己」と「記憶する自己」のふたつの自己があって、それらは別々の観念であるというのだ。

digitalcast.jp

病院へ行って、「いま痛みますか?」という質問に答えるのが、「経験する自己」。
一方で「この一週間どうでしたか?」という質問に答えるのが、「記憶する自己」。

人間は往々にして「経験する自己」よりも「記憶する自己」を重視するのだという。 ある意味では、記憶の積み重ねがその人自身をつくっているともいえる。

けれども、記憶とは決して正確に測られたものではなく、曖昧なものだ。 コンピューターのメモリ媒体のように、時間と出来事を正確に結びつけて記憶しておくことなどできない。 また記憶された場面を、同じ割合で圧縮させて保存しておくことなどできない。

10年前の出来事で忘れてしまうこともあれば、20年前の出来事なのに覚えていることだってある。 2002年の日韓ワールドカップのとき、私は中学生だった。 昼休みに教室でサッカー好きな友人と興奮して話していた場面を、今でも思い出すことができる。 その時のFIFAガイドブックと弁当と、教室の風景とともに。

そのようにして、過去に経験したいくつかの場面だけが、切り取られた写真のように記憶に刻まれていく。 このことを、著者は「記憶の結晶」という形で表現したのではないか。

記憶の結晶を紡ぎ、物語をつくること

小川さんは、「密やかな結晶」を執筆中、アンネ・フランク「アンネの日記」を並行して読んでいたという。 アンネは、自らの中に宿る記憶を書き起こし、物語として残すことで、何もかも奪っていく「ナチス・ドイツ」への抵抗を試みた。

本書の主人公”わたし”も、記憶を奪われ、概念が次第に消失する島で、R氏の励ましの中で懸命に執筆を試みる。 書いた翌日には内容を忘れているため、執筆はうまくは進まない。それでも、言葉を紡ぎ、書き残し、物語をつくっていく。 アンネと同じやり方で、何もかもを奪っていく”秘密警察”に対抗しようとする。

「ポスト・トゥルースの時代」と言われる。 美しく壮大なストーリーだけが叫ばれひとり歩きしていることが、時に悲しくなったりする。 ネットメディアで拡散されることによって、いかにもそれが「ただひとつの正解」であるかのように報じられる。

けれども、一人ひとりが抱えている物語は、きっとそれほど美しく壮大なものではないと、私は思う。 本書の小説家である”わたし”のように、アンネ・フランクのように、個人の結晶化した記憶を紡いでいくこと。 それが「誇張されたストーリー」に巻き込まれないための術になるのではないか。

『密やかな結晶』は、日本人の繊細な感性が読める素晴らしい小説と感じた。

2023/1/9

<参考文献>
小川洋子『密やかな結晶』(講談社, 1994)
ダニエル・カーネマン『ファスト・アンド・スロー』(早川書房, 2012)