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【入門書】ブッダ思想に触れてみる

最近妻が瞑想にハマっていて、朝の習慣になっているようです。私は瞑想の習慣はありませんが、マインドフルネスに通ずるブッダ思想にはずっと興味を持っていました。

ブッダの生涯については、小さい頃に手塚治虫の漫画を読んで軽く知っていた程度で、仏教自体の成り立ちについては、よく知りませんでした。 私は家が浄土真宗なので、平たくいえば「大乗仏教」の文化の中で育ってきました。同じ仏教でも、お釈迦様の原始仏教と、親しみのある大乗仏教とでは、考え方に違いがあるように思えます。

インドで生まれた原始仏教と、日本人が親しんできた大乗仏教は何が違うのだろう。

そんな疑問を持って、いくつかの入門書にあたってみることにしました。 中でも以下の本が、先生の講話を聴いているように楽しく学べた一冊でした。

「反バラモン教の宗教」として仏教は生まれた

ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)は、ヒマラヤ山脈ふもとにあったカピラヴァストゥという現在のネパール領あたりでお生まれになり、南下して現在のインド領に入り、悟りを開かれました。よって、仏教発祥の地はインドということになります。

当時のインドでは「バラモン教」というヒンドゥー教の前身となるような宗教観が社会を支配していました。バラモン教では、「カースト制度」が敷かれており、厳格な身分制度がありました。

なぜこのバラモン教が広まったのかというと、ある民族が進出してきて、インドに2つの民族が共存するようになったことが由来しています。彼らは「アーリア人」と呼び、馬術の使い手で武力も強く、牧畜生活を営んでいた現地人たちを支配するようになりました。(ヨーロッパでは「アーリア人」と呼ぶとセンシティブな問題もあり、「インドヨーロッパ語族」と呼んだほうがいいようです。)

バラモン教の世界は、以下のようなカースト制が敷かれます。 神の声を聞ける「バラモン(司祭)」という身分の人たちがカーストで最も上位であり、その下に「クシャトリア(王族・武士)」、「ヴィイシャ(庶民)」、「シュードラ(隷属民)」、「アウトカースト(不可触民)」と続きます。 上位3つがアーリア人で、下位3つ先住民です。

この身分制度は今の社会からすれば、かなり不条理に見えます。 どう考えても人は平等であり、生まれや血筋で人の生き方が決められるべきではない。 叡智ある人たちであれば、四民平等な社会を生きるべきではないか。 当時のお釈迦様も同じことを考えられたようで、「バラモン教」とは違う考え方を社会に打ち立てようとしたのです。

仏教の登場は、ある種の「社会改革」でもあったわけです。

しかし、ご存知の通り現在のインドではヒンドゥー教徒、イスラム教徒が大部分を締め、仏教徒は少数です。

◆インドの宗教 ヒンドゥ教(79.8%)、イスラム教(14.2%)、キリスト教(2.3%)、シーク教徒(1.7%)、仏教(0.7%)など(2011年センサス) https://www.jetro.go.jp/world/asia/in/basic_01.html

インドでも仏教は1500年ほど続きましたが、約1000年前に、ヒンドゥー教に飲み込まれて滅亡したようです。 一方で、お釈迦様のつくった仏教は、他の国に伝来し、全世界に広まっていきました。 その中のひとつが、日本に伝わり発展を遂げた「大乗仏教」なのです。

社会に依存して生きるーサンガは究極の組織論ー

お釈迦様の四門出遊エピソードについては、有名なので割愛します。

悟りを開いたブッダは、5人の弟子とともに集団生活を開始します。 このような組織のことを「サンガ(僧団)」と呼びます。 「あつく三宝を敬え」の三宝「仏・法・僧」の「僧」にあたるものです。

仏教はひたすら精神集中をして、自分の心と向き合い、「修行」に一筋に打ち込むものです。しかし、ブッダの教えが人気になると、弟子の数も100人を超えるほど広がっていきます。集団生活をすると、衣食住や他人のことで気が散り、煩悩に囚われがちになります。

これでは「修行」に集中できない!本末転倒ではないか!

と考えたお釈迦様は、解散命令を出し、ひとりひとりが独立して出家した人たちを受け入れるように促します。そうして単一集団だった仏教は、一極集中型から地方分権型の組織へと変わっていきました。

ひとつひとつのサンガは完全独立制なので、そこにヒエラルキー構造はありません。 大乗仏教には「総本山」というように、「本山・末寺」というピラミッド構造のシステムがあります。ここにも原始仏教と大乗仏教との違いがあります。

サンガにはリーダーがおらず、メンバー間の権力的な上下関係はありません。 「出世して偉くなろう」などといった考えにはならず、俗世的な煩悩からも開放されます。 出家した人は、個人財産の所有は禁じられています。生産活動も一切禁止で、仕事をしてはいけません。

では出家した人はどうやって生活するのか?というと、 「生計のすべてを、一般社会に依存して生きる」のです。

例えば、あなたが修行僧のお坊さんだとします。

自分の畑で人参と大根をとり、煮しめをつくって食べました。

これは仏教的にはNGのようです。自ら生産活動は行ってはいけません。

道端にコロッケが落ちていたので、拾って食べました。

これも仏教的にはNGのようです。なぜなら、人様からの施しではないからです。

あなたは立派なお坊さんなので、明日お食事を用意しますので召し上がってください、と夕食に招かれました。

これはOK。信者さんのご厚意によるものはお受けすればいいのです。

人に頼って生きるけれども、ひとりひとりが独立し上下関係なく生きる。

それは、持続可能な組織のつくり方を考える上で、現代にもヒントを与えてくれるものだと思います。「2500年も続いている組織形態である」という事実が、それを物語っています。

「学び」はすべてに勝る

お釈迦様の教えは、弟子たちによる口伝で伝承されてきましたが、紀元前1世紀頃にテキスト化されます。こうしてできたのが、「ニカーヤ」と呼ばれるパーリ語の経典です。 全て数えると5000以上あるようですが、中でも人気なのが『ダンマパダ』と『スッタニパータ』です。

私はこの中でも、「学び」と「自己鍛錬」について説かれた言葉に興味を惹かれました。 正しく智慧を養うにはどうすればよいかについて、いくつかの言葉を取り上げます。

「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない。」『ダンマパダ 152』

学ぶ努力をしなければ、草食っている牛と一緒だよ!という教えです。

「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。」『ダンマパダ 63』

ソクラテスの『無知の知』と近いしい考え方ですね。 自分のことを自覚することで、また学ぶことへのモチベーションを生むというイメージでしょうか。

「行動を制御するのは善いことだ。言葉を制御するのは善いことだ。心を制御するのは善いことだ。すべてにおいて、制御は善いことである。すべてにおいて制御した仏教修行者は、あらゆる苦しみから逃れ出る」『ダンマパダ 361』

「行動・言葉・心」の3つを合わせて「身口意」といい、これらを制御することで、生きる上での苦しみ(一切皆苦)から逃れることができるといいます。 自己コントロールが良い生き方につながるというのは、とても現代的な考え方だと感じます。ではどのような自己鍛錬を踏めばよいのでしょうか。

「たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。──牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。」『ダンマパダ 19』

お釈迦様の教えの特徴は、「自分自身の問題に焦点を合わせること」です。 原始仏教の目的は「人助け」ではありません。あくまで「一切皆苦」から逃れるための「自己救済」です。 そして自分をしっかり確立するには、口だけではなく行動せよということです。

「究極の真理へと到達するために精励努力し、心ひるむことなく、行ない、怠ることなく、足取り堅固に、体力、智力を身につけて、 犀の角の如く、ただ独り歩め」『スッタニパータ68』

「犀の角のごとく」という表現が、いかついですね。これがあるべき仏道修行僧の姿ということです。

まとめ

私は原始仏教の経典にはあまり馴染みがなかったのですが、一冊で原始仏教について俯瞰的に学べるわかりやすい入門書でした。 仏教の生まれた背景や、根底としてある考え方を知ることで、『ダンマパダ』『スッタニパータ』といった有名な経典の感じ方も変わってくるように思います。

昨今のアメリカでは、「ナイトスタンド・ブディスト」(Nightstand Buddhists)と呼ばれる、寝る前に仏教の経典を読んだり、瞑想を行ったりするライフスタイルも流行しているようです。ビジネスパーソンには、日常に瞑想やマインドフルネスの習慣を取り入れている人も多いと聞きます。

ブッダの思想が世界中で愛されるのは、その考え方が現代社会でも違和感なく取り入れやすいものであるからかもしれません。

以上、長文となりましたが、お読みいただきありがとうございました。

<参考文献>
佐々木閑『本当の仏教を学ぶ一日講座 ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』(NHK出版,2013)
中村元『ブッダの 真理のことば 感興のことば』(岩波文庫, 1978)