映画『ドライブ・マイ・カー』を映画館でみたのは、1ヶ月ほど前のことだ。
それから原作である『女のいない男たち』と劇中劇である『ワーニャ伯父さん』を読んでみた。 映画が伝えようとしていたメッセージを、原典にあたることで、より深く理解したくなったのだ。
『ドライブ・マイ・カー』は、物語が幾層にも重なることによって重厚なストーリーを形成している。 村上春樹の長編小説にもこの形態を取るものがあり、私の好きな『ねじまき鳥クロニクル』も、小説の中にノモンハン事件などのエピソードが語られていて、似た構造をしている。
濱口竜介監督はインタビューでも、「村上春樹さんが長編小説でやられている手法を意識した」と明確に語られている。
180分近くある映画にもかかわらず、ずっと集中してみることができ、今でも各場面を鮮明に思い出すことができる。 そんな映画『ドライブ・マイ・カー』の魅力は、いったいどこにあるのだろう。
本記事では私の好きなポイントを、いくつかの点に絞って挙げてみた。
3つの物語の交差点 ー家福の物語、みさきの物語、ワーニャ伯父さんー
映画『ドライブ・マイ・カー』で物語の主軸になっているのは、3つの物語だと考える。
- 家福の物語
- みさきの物語
- 『ワーニャ伯父さん』の物語
家福は妻である音を失い、亡くなる直前に正面から彼女と向き合えなかったことで、後悔の人生を過ごしている。 渡利みさきは土砂崩れによって家と母を失い、母を見殺しにしてしまったことを抱えながら、たどり着いた広島でドライバーをしている。
劇場と宿泊先とを往復する車の中で、家福はみさきの運転を好み、次第に打ち解けていくようになる。 ふたりとも、背負っているものがありながら生きているという共通点を見出し、まるで親子のように、言葉が少ないながらも理解を深めていく。
ふたりの置かれている状況は、劇中劇である『ワーニャ伯父さん』のワーニャとソーニャの関係にそのまま重ねることができる。
ワーニャは、亡き妹の夫であるセレブリャコーフ教授を崇拝してきたが、退職後のひどく落ちぶれた姿に絶望し、裏切られたという気持ちでいる。 ソーニャは、教授の後妻エレーナを目当てに訪問を繰り返す医師アーストロフに恋するが、叶わぬことを知りその運命を受け入れる。
筋立ては多少異なっているものの、人生のある希望を絶たれた状態で生きていく境遇にあるという点で、家福とみさき、ワーニャ伯父さんとソーニャ、という二人の関係は呼応しあっている。
みさきは『ワーニャ伯父さん』の物語を知らなかったが、家福が車で何度もセリフが吹き込まれたカセットテープを再生するので、後半に進むにつれて、そのストーリーやセリフを覚えていくようになる。
家福とみさきの潜在意識のなかに、『ワーニャ伯父さん』のセリフが刻まれていく。 最後の有名なセリフは、劇中劇の中で、聾唖者であるイ・ユナによって”手話”で演じられる。
ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。 運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。 そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。 そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。 すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ、そして、ワーニャ伯父さん、伯父さんとあたしは、明るい、すばらしい、夢のような生活を目にするのよ。
(『ワーニャ伯父さん』浦雅春訳 光文社古典新訳文庫より引用)
「運命が送ってよこす試練」にじっと耐えて、働き続けないといけない。でもきっと、その先には「明るい、すばらしい、夢のような」生活を目にするようになる。ソーニャがワーニャを癒やして諭したように、みさきも家福の殻に閉じ込められていた感情を呼び起こし、癒やしていく。
これは二人の間に「共通の物語」があってこそ可能だったのだろうと考える。
サーブ900は、物語をつなぐために走り続ける
印象的な赤のサーブ900は、これらの物語をつなぐための場所として、重要な役割を果たしている。 高槻の音と交わした会話の続きも、イ・ユナが家福と音を食事へ誘った理由も、秘密はすべて車の中で話され、物語が展開されていく。
広島市から瀬戸内に向かう海の景色に赤のサーブ900が見事に溶け合っている。 家福が宿泊していたロケ地にもいつか行ってみたいものだ。
みさきの家を見に行くために、広島から新潟へ向かう。 フェリーに乗って上十二滝村(架空の村)へ向かうと、あたりは雪景色になっている。
瀬戸内海の「青い海」と、「赤のサーブ」。
北海道の「白い雪」と、「赤のサーブ」。
この対比が鮮やかで、原作の「黄色のサーブ」よりずっといい。
終始静かな映画なのだが、サーブ900が走り続けているおかげで、物語が停滞せずに進んでいく。 「ドライブ空間が継続すること」も、映画をずっと集中して見ていられる理由のひとつかもしれない。
「みさきの未来」を感じさせるラストシーン
みさきが韓国のスーパーで買物をしているラストシーンでは、多くは語られず、解釈を観客に任せる形で映画は結末を迎える。
ここでみさきは赤のサーブ900に乗り、イ・ユナ夫妻の飼っていた犬を連れている。 以前より晴々とした表情で毎日を過ごしている様子が映し出される。
家福の登場シーンは劇中劇でおわり、その先どうなったかはわからない。 過去の自分の感情と向き合うことで、また気持ちを新たに目の前の仕事に打ち込んでいるかもしれない。 けれども、彼はもはや中年で、そこに新しい展開が開かれる可能性は低い。
「みさきの未来」は、それと比べると、ずっと明るいものだ。 家福のドライバーを続けてもいいし、別の仕事をしてもいい。 これからまだ恋愛もできるし、家族をつくることだってできる。 そんな「希望の見える終わり方」をしてくれているおかげで、映画を爽やかな気持ちで見終えることができる。
原作「男がいない女たち」では、「ドライブ・マイ・カー」にせよ、「木野」にせよ、不気味な終わり方になっていて、決して後味のいい短編ばかりではなかった。 その点、映画ではフレッシュな終わり方をしていてよかった。
最後に。
チェーホフ『ワーニャ伯父さん』については、恥ずかしながら映画をきっかけにはじめて知った。 何度も舞台化されている、定番戯曲のようだ。
映画鑑賞後、光文社古典新訳文庫を手にとったところ、古典にもかかわらずスイスイ読みすすめることができた。 劇中劇として演じられていたセリフの意味がわかって、映画のメッセージを深く理解できたように思う。
『ドライブ・マイ・カー』を既に見た人も、これから見る人にも、『ワーニャ伯父さん』にどこかで触れることおすすめしたい。
2022/03/08