街行き村行き

明日あたりは、きっと山行き

京都・ラーメン・観光客

京都で久々にラーメンを食べた。

その日は午後から用事があり、お昼前にランチを探した。寒い冬の京都ということで、無性にラーメンが食べたくなった。たまたま昔好んで行った塩ラーメンの店が近くにあることを思い出した。しかし、その店の開店にはまだ少し時間がある。待っていれば次の予定に間に合わない。仕方なく、Googleマップを開いて近くの店を探すことにする。

舌はもうラーメンを欲していたので、「ラーメン」と打ち込んで検索すると、レビュー件数の爆発的な店がみつかった。どうやらミシュラン常連のラーメン屋らしい。しかもほんの10mほど目と鼻の先の距離にある。店先をのぞくと並んでいる人も少なく、人気店のわりにすぐ入れそうだ。ランチに迷う時間もなかったので、この店に入ることにした。

店内はとにかく活気があった。カウンターには西洋人の旅行客らしき夫婦がいて、テーブルには中国人のファミリーがいた。私のように1人で気軽にラーメンを楽しみに来ている日本人客も何人かいた。まずメニューを手に取ると、左に日本語、右に英語ときれいに2分割されて2カ国語対応している。ラーメンはすべて1400円以上で中には2000円を超えるものもある。決済はすべてキャッシュレスで現金勘定はない。そこでやっと「観光客向けの店に入ったのだな」と認識した。

私はその店の一番スタンダードなラーメンを注文した。鰹節がしっかり効いたスープで美味しい。麺は細麺で一乗寺にあるような昔ながらの京都ラーメンを思わせる。あとでゆずの皮やとろろ昆布で味変する用意もある。スープには日本らしさがあり、麺には京都らしさがあり、盛りつけにはミシュランらしさがあった。おもてなしには完璧なラーメンだった。勘定しようとすると、店長らしき人が「朝早くから来ていただいてありがとうございます」とさりげなく声をかけてくれた。接客も料理の味も、とても気持ちの良いものだった。

しかし同時に、店を出たあとに複雑な気持ちになった。私の中の何かが不満だった。ただこの時はその正体をうまく言語化できずにいた。

京都によく行くようになったのは、バンド活動が再開されたからでもある。ドラムは大学時代から一緒にバンドをやっていたK先輩だ。Kさんは京都のとあるジャズバーで働いている。40年超の歴史があり、マスターは70代の老舗店だ。卒業してから1年ほどで脱サラして、あとはずっとこのジャズバーで働いている。

それほど給料のいい仕事ではないらしく、コロナ前までは常に金欠のようだった。飲みに行っても一緒にいたメンバーで多めに払うことが多かった。けれども、最近はなんだか羽振りがいい。スタジオ代はきっちり払ってくれるし、練習後に飲みに行くとシフトがあるからと先に出るのだが、少し多めに置いて行ってくれる。

「Kさん、何かあったんですか?」と聞くと、
「給料2倍になってん!」と返ってきた。
「店に外人ばかり来るようになって、めっちゃ儲かってんねん!」とのことだった。
表情もコロナ前よりもちょっぴり明るくなった気がする。

音楽を主体とした店は、経営的に行き詰まりやすい。趣向がコアになると客層が固定化するからだ。学生時代に行った店は、この10年ほどでいくつ閉店したことだろう。競争の熾烈な京都の繁華街で生き残るには、常連客だけでなく観光客向けにサービスすることも必要になる。インバウンドの影響はこんなところにも出てきているのだ。

むろん京都の観光地化は今に始まったことではない。以前からバス停で待っていると旅行客からしばしば道を聞かれたし、海外情勢によって旅行客の人種は変わるものの、観光の街であることは変わっていない。けれども以前に私が住んでいたときや、コロナ前にアジア人が爆買いしにきていたときとは、また違った現象が起きているように思う。

それは私たちのパーソナルな生活空間にまで、旅行客が来るようになったということだ。彼らは清水寺や嵐山を求めるのではない。唯一無二の体験を求めて日本に来る。以前の京都は、観光地とそれ以外はきれいに分かれている印象だった。しかし一般的なガイドブックに掲載されている場所を訪れる体験への価値は低くなり、希少な体験を求めて旅行客が訪れる。K先輩の働くバーは、その格好のスポットになっていた。


こんなことを考えるようになったのは、東浩紀『観光客の哲学』を読んだことが影響している。本書では「観光客」とは、自由気ままにその国を訪れて、偶然その国の文化に触れて帰っていくような存在のことをいう。東の主張は、「観光客」のような流動体な存在が、分断された社会を解きほぐすためのヒントになるのではないかということだ。

本書の中にこんな文章があった。

現代は決してナショナリズムの時代ではない。かといって、単純にグローバリズムの時代でもない。現代ではナショナリズムとグローバリズムという2つの秩序原理は、むしろ政治と経済の2つの領域にそれぞれ割り当てられ重なり共存している。僕はそれを二層構造の時代と名づけたいと思う。 (『第3章 二層構造』 より引用)

冒頭のラーメン屋を出たあと、感じた違和感の正体についてしばらく考えていた。本書を読みながら思った。

私は生まれ育ったこの街で、いつからか観光客になったのかもしれない。

Kさんのジャズバーは、以前はそれほど居心地のいい場所とは思えなかった。狭苦しい空間に常連客が多くて馴染めなかった。それでも文化的スポットとして注目されていると聞くと、また行ってみたくなった。

私はここでもまた観光客になろうとしている。

京都はグローバルに開かれた文化都市であるから、街が変わっていくのは当然の成り行きであるし、年月が経っても微々たる変化しかない田舎と比べると、それは歓迎すべきことなのだろう。

私はミシュランのラーメン屋に対して不満だったのではない。観光客にはなりたくなかったのだ。自分の中にある二層構造を受容できていなかった。観光地はグローバリズムと無縁ではいられない。あの頃の京都を残しておいてほしい、存続しておいてほしいと願うのは、単に一時代を経験した人による個人的な願望にすぎない。そんなものを大事にしていると、街の方が廃れてしまう。京都という街は、私にとってグローバリズムとローカリズムの二層構造を意識する特別な場所に変わりつつある。

次に京都でひとりランチをする機会があれば、今度は昔行った塩ラーメンの店に行ってみたい。夜を過ごす日があれば、Kさんのジャズバーにも行きたい。私はひとつの街を両方の側面から訪ねてみることができる。そんな場所はここ以外にはない。

<参考>
東浩紀『観光客の哲学』(ゲンロン叢書, 2017)

【入門書】ブッダ思想に触れてみる

最近妻が瞑想にハマっていて、朝の習慣になっているようです。私は瞑想の習慣はありませんが、マインドフルネスに通ずるブッダ思想にはずっと興味を持っていました。

ブッダの生涯については、小さい頃に手塚治虫の漫画を読んで軽く知っていた程度で、仏教自体の成り立ちについては、よく知りませんでした。 私は家が浄土真宗なので、平たくいえば「大乗仏教」の文化の中で育ってきました。同じ仏教でも、お釈迦様の原始仏教と、親しみのある大乗仏教とでは、考え方に違いがあるように思えます。

インドで生まれた原始仏教と、日本人が親しんできた大乗仏教は何が違うのだろう。

そんな疑問を持って、いくつかの入門書にあたってみることにしました。 中でも以下の本が、先生の講話を聴いているように楽しく学べた一冊でした。

  • 「反バラモン教の宗教」として仏教は生まれた
  • 社会に依存して生きるーサンガは究極の組織論ー
  • 「学び」はすべてに勝る
  • まとめ
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『君たちはどう生きるか』をみて。地球儀を回すということ。

セミがシャンシャンと鳴き始め、早朝から目が覚める。
すっかり夏らしい気候になってきた。

先日、話題の映画『君たちはどう生きるか』をみてきた。
事前情報一切ナシでの映画鑑賞は新鮮だった。

エンディングで流れた米津玄師『地球儀』が力強いメッセージ性のある爽やかな一曲で、素直に感動した。
今までとりたててファンというわけでもなかったが、宮崎駿監督に捧ぐ心意気を感じた。
きっとサマーウォーズの『僕らの夏の夢』のように、この季節が来るたびに聴き直したくなるだろう。

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を思い出して、ぐるぐると思考が巡った。 映画をみて、主題歌を聴いて、感じたことを言葉にしてみる。


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米津玄師『地球儀』

僕が生まれた日の空は 高く遠く晴れ渡っていた
行っておいでと背中を撫でる 声を聞いたあの日

季節の中ですれ違い 時に人を傷つけながら
光に触れて影を伸ばして 更に空は遠く

風を受け走り出す 瓦礫を越えていく
この道の行く先に 誰かが待っている
光さす夢を見る いつの日も
扉を今開け放つ 秘密を暴くように
飽き足らず思い馳せる 地球儀を回すように

僕が愛したあの人は 誰も知らないところへ行った
あの日のままの優しい顔で 今もどこか遠く

雨を受け歌い出す 人目も構わず
この道が続くのは 続けと願ったから
また出会う夢を見る いつまでも
一欠片握り込んだ 秘密を忘れぬように
最後まで思い馳せる 地球儀を回すように

小さな自分の 正しい願いから始まるもの
ひとつ寂しさを抱え 僕は道を曲がる

風を受け走り出す 瓦礫を越えていく
この道の行く先に 誰かが待っている
光さす夢を見る いつの日も
扉を今開け放つ 秘密を暴くように
手が触れ合う喜びも 手放した悲しみも
飽き足らず描いていく 地球儀を回すように

地球儀

地球儀

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

僕らが生まれた時は、ただまっすぐに空が見えているだけだった。
ただそこには、限りなく世界が広がっているような気がした。それは自分にとって心地良いものであるべきだと思った。
次第に母の存在を知り、父の存在を知り、家族の存在を知り、周囲にある存在の輪郭が少しずつ見えてくるようになった。
この調子で、世界は自分にとってとても居心地の良い場所として作られていくだろうと思った。

でもそれはすぐに間違いだということがわかる。
一歩家を出てみると、周囲にはいろんな人たちが歩いている。
仲良くしてくれる人もいれば、いじめてくる人もいる。楽しい瞬間もあれば、苦しい瞬間もある。痛みを伴うような出来事もある。
ときには無条件に愛をくれていた人が、突然去ってしまうことだってある。
そんな時に、この世界はなんと残酷なんだろうと感じ、世界を恨み始める。

けれども、目の前には道が続いているから、とりあえず歩き出さなければならない。
何を目的にして生きていくかを決めなければならない。
けれども、それをいくら机の上で探し続けていても、見つかることはない。
どれだけの本を読んでも、過去の偉人の言葉に触れたとしても、それは見つからない。
過去の言葉は美しく残っているから、その言葉たちだけが自分を理解してくれているような錯覚に陥る。
現実を見ると、周囲にいる人たちは私のことを一向に理解してくれない。
そのように考え始めると、この世界に失望し、心を閉ざしたくなる。

まだ幼かった頃、よく祖父母に連れられてデパートの屋上へ行った。
そこには子供が遊べるようなミニアトラクションがあって、それに乗って遊ばせてもらった。
吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」のコペル君のようだ。
コペル君がおじさんに連れられて、デパートの屋上に行ってみると、そこから見える人たちが粒のように小さく目に飛び込んでくる。
あれほど目の前では大きかった大人たちが、どこまでも小さく見える。

”It's a Small World”

この世界は何と小さくできているのだろう。
少し頑張ればおもちゃの積み木のように組み立てられてしまいそうだ。
けれども、自分は彼らのことを一体どれだけ知っているだろうか。
コペル君はおじさんから教えてもらう。人と人とは多くの関係性の上に成り立っているから、自分だけの世界で物を見てはいけない。
コペル君は、この法則を「人間分子の関係、網目の法則」と名付けた。
自分は世界を構成するたった1人の人間でしかないことを認知したのだ。

この法則を知ってから世の中に冒険に出てみると、自分以外の人たちのストーリーが少しずつ目に飛び込んでくる。
それは人だけではなく、生き物たちの世界もまた同じである。
彼らはきっと、自分とは全く違う理由で存在していて、全く違うことを考えていて、全く違うことを糧に生きている。
だから、最初はなぜそこにいるのかが理解できない。けれども、じっくりと向き合ってみると、彼らの世界が見えてくる。

生きていると、必ず憎い人に出会う。もう話したくないような人。接点を持ちたくないような人。
周囲がそんな人ばかり見えてくるつらい時期もある。そんな時はこの世界を投げ出したくなる。
けれども、ふと立ち止まって考えてみる。
なぜそんなにひどいことを言うのだろう。
めげずに向き合っていると、その理由に気づき始める。
彼らは、自分とは全く別の世界を生きているのだということを知る。

では目に触れないもの、話したくない人とは、関係を持たなくて良いのだろうか。
きっとそうではない。
「人間分子の関係、網目の法則」が存在するならば、彼らとも一定の距離を持って関係を保たなければならない理由があるのだ。 彼らは時に自分を攻撃し、互いに痛みを伴うこともある。でもそれが人間として生きるというものだ。

もし世界が自分の好きなものだけで囲まれていて、理想とするものだけでできていて、その中で生きられるとして、それは幸せなことだろうか。 例えばその世界を、全知全能の神のように構築できるとして、その作業は本当に楽しいものだろうか。
そこにはある視点が欠けている。周りには誰もいないのだ。

ただ理想だけを追い求めて、ひとりで積み木を組み立てるように創造した世界は、いつかは崩れてしまう。
片時も目を離さずに、ひとりで積み木を支え続けることなんて、到底できない。
だから周囲の誰かがそこに手を貸してくれるのであれば、その人と手をとるべきである。
それが自分にとって憎い人であったとしても。それが社会を生きるということだ。

理想の地球儀を想像してみる。
ひとりひとりにとっての地球儀は違っているから、共同作業はときに大変だ。
まったく予想もしなかった色が塗られてしまう場合もある。
回転が早すぎると感じることもある。
けれども誰かが地球儀を描いて回すことで、道がぱっと開けることがある。

ひとつの地球儀をみて、自分の小ささを痛感する。
一方で、その小さくミクロな世界を大事にしていこうとも思った。

<参考>
米津玄師『地球儀』
https://www.kkbox.com/jp/ja/song/8ng7FFpFMjx8RJy-qf

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫(1937)

『ゼロからの資本論』から考える地方自治

昨日は統一地方選挙の日でした。 住んでいるエリアが少しでも元気になることを願って、みなさん投票に行かれたことと思います。

今回はそんな「地方自治」を考える上で、多くのヒントをくれる一冊をご紹介しようと思います。 「ゼロからの資本論」(斎藤幸平・著)です。

斎藤幸平さんは、「人新世の資本論」という本が一躍ベストセラーとなり、若き日本のマルクス研究者として著名になりました。前著では、「脱成長コミュニズム」という言葉を使って、行き過ぎた資本主義を是正しなければいけない。経済的な成長をひたすらに追い求めるのではなく、「脱成長」と「コミュニズム」という考え方を取り入れていかなければ、やがて世界を破綻してしまうだろうと述べました。この過激な言葉も相まって、「人新生の資本論」はベストセラーになり、かつてのマルクス主義とは違った新しい見方が広まりました。この点に関して斎藤さんの功績は大きいと考えます。

もともとマルクス主義と言うと、「革命につながる思想」みたいなイメージがあって、とっつきにくい印象がありました。本屋へ行っても、マルクス・エンゲルスの書棚だけ妙にいかつくて、近寄りがたい雰囲気でした。内田樹さんら、好きな作家が「マルクスは読んだほうがいいよ」と語っていても、なかなか「入門書」にまで手が伸びなかったのです。 ところが「人新世の資本論」のヒットによって、原著は読めなくても、そのエッセンスをまとめた本は手に取りやすくなりました。

斎藤さんはマルクスの資本論に隠された別のメッセージを彼の残した膨大なメモから解読し、晩年のマルクスが辿りつこうとしていた「資本主義を超えたコミュニズム」という思想に気づきました。晩年のマルクス思想を研究することによって、今の社会を打破する方法を閉塞的な社会を打ち破る方法を模索しているのです。

「商品」と「価値」

マルクス主義を考える上で最も根底にある概念、それは「商品とは何か」と言うことです。これを考えるにあたって、まず知っておかなければならないのは、「使用価値」と「価値(交換価値)」は別の意味があるということです。

一つは、「使用価値」という顔です。「使用価値」とは、人間にとって役立つこと、つまり人間の様々な欲求を満たす力です。 水には喉の渇きを潤す力があり、食料品には空腹を満たす力があります。マスクにも、感染症の拡大を防止するという「使用価値」があります。生活のために必要な「使用価値」こそ、資本主義以前の社会での生産手段の目的でした。
(p.38 『第1章 商品に振り回される私たち』)

一方で、資本主義において、商品の価値は生活上必ずしも必要なものだけにつくとは限りません。「儲かるモノ」と「必要なモノ」は必ずしも一致しないのです。重要なのは、商品のもうひとつの顔、「価値」です。

「使用価値」の効能は、実際にそのものを使うことで実感できますが、「価値」は人間の五感では捉えることができません。マルクスも「まぼろしのような」性質だと言っています。日常生活では商品に「値札」をつけて、かろうじてその輪郭をつかむことができますが、目に見えない不思議な力が、身近な商品にはあるのです。そして、この価値という不思議な力が、市場の拡大とともに、社会に大きな力を与えるようになっています。
(p.40 『第1章 商品に振り回される私たち』)

さらにマルクスは、この「使用価値」を離れて、資本主義的な意味での生産量が増えていくこと、つまり際限なく増殖していく「価値」を、「剰余価値」という言葉で表現しました。マルクスの生きていた当時の西欧諸国では、今よりもを労働者が劣悪な条件で働かされていて、1日16時間労働で、寝食以外の時間は全て工場労働に費やされるようなそのような環境であったといいます。このような環境下で労働者たちは価値を増大していくために2つのことを迫られます。

ひとつは、なるべく長時間働いて生産量を上げるということ。
(絶対的剰余価値)
もうひとつは、何らかの形で生産効率を上げるということ。
(相対的剰余価値)

この2つによってしか生産量アップは見込めない。これが資本論における資本家が目指すとされている考え方です。これを繰り返すことによって、生産量は労働者の労働力以上に増大していく。ここで生まれるものが「剰余価値」といったものです。

以上が、『資本論』の冒頭で語られるベースとなる主張ですが、本書のポイントはこの先にまで議論を進めていることにあります。『資本論』の基本的な考え方に沿って資本主義を進めていけば、そこには必ず問題が起きる。例えば環境問題。資本主義は身の回りのあらゆるものを商品に変えていくので、剰余価値を増やしにくいもの、例えば廃棄物などを経済圏外へと捨てて見えないようにし「外部化」していく。

ポイントは「脱商品化」と「コモンの再生」

この点について、本書ではもう一つのキーワードである「物質代謝」と言う言葉を使って説明をしています。「物質代謝」とは、人間を含めた生物は生命の循環の中で生きている。自然環境や生物へと働きかけることによって、生きる術を得ているということです。つまり、私たちが資源の外部化を行うことなく、経済システムを機能させるのであれば、人間たちの周辺にある自然や生物との共存を考えていく「物質代謝」という考え方を根底としてなければ、社会システムを永続することはできないという考え方がある。現代の社会システムを考えると、産業革命以降は、「人間と自然の物質代謝」という、生物が共存するためのルールを無視して、資本主義を走らせてきた。そんな印象を持ちます。

人間は、絶えず自然とやりとりしながら生を営んでおり、その”働きかけ”が、すなわち人間の労働でした。ところが、資本主義のもとで労働が価値増殖のために行使されるようになった結果、人間の労働力は粗雑な扱いを受けるようになったのです。
(p.130 『緑の資本主義というおとぎ話』)

では私たちが資本主義の次を想い描くための未来とは一体どんなものなのでしょうか。著者の主張では、ポイントは「脱商品化」にあるといいます。身の回りのものを何でも商品に変えていく資本主義と言う考え方に対抗すべきポイントはなんでもかんでも商品にすることを、避けるべきだというのです。

著者は、ドイツの医療体制や教育体制を事例として挙げています。ドイツでは、何十年にもわたって学生を続ける人がいる。なぜなら、学生であれば交通費も安く済み、また教育は無償化されているので、学生を続けることに基本的にお金をかからないように教育制度が整っているということです。また医療を受けるのもほとんど無償化されている。これによって必要な生活インフラの「脱商品化」を実現しているのです。ドイツは資本主義国ですが、「脱商品化」をすすめることで、物象化の力にブレーキをかけているのです。

私が留学していたドイツでは、事情が大きく異なります。なんと、大学を4年で卒業する人のほうが少なく、6年かかるのはいたって普通。博士課程まで入れると20年ぐらい学生をやっている人がいることに、留学当初は衝撃を受けました。 (中略) これこそが、福祉国家の研究者であるイエスタ・エスビン=アンデルセンが「脱商品化」と呼んだ事態です。つまり生活に必要な財(住居、公園)やサービス(教育、医療、公共交通機関)が無償でアクセスできるようになればなるほど、脱商品化は進んでいきます。
(p.169 『第5章 グッバイ・レーニン!』)

このような考え方で世界を見渡してみると、例えば今の中国は、単に国家が資本主義を推し進めているだけの存在であるということに気づきます。著者は、中国のことを「国家資本主義」と呼んでいます。中国は、文化大革命によって社会主義国家ではなくなったが、資本主義国家アメリカと同様の資本主義になったわけではなく、国家または官僚が国民から剰余価値を搾取するという国家資本主義になっただけだと述べています。この説明には、なるほどと納得しました。資本主義が行き過ぎてしまっているかは、この剰余価値の搾取があるかどうかという点を見ることが重要なのです。

感想など

本書を読んでいて、「あれ?日本って剰余価値の搾取がどんどん進んでいるかも」と思えたのが一番の発見でした。 「郵政民営化」にはじまり、「電力自由化」「通信事業者の自由化」など、ここ20年ぐらいで公共インフラだったものが「商品化」した事例はたくさんあります。

私は大学卒業時に大学院への進学も少しだけ検討しましたが、文系だったこともあり、企業との縁もあって就職してしまいました。ドイツの事例などを読んでいると、もう少し学生を続けたかったな、日本が将来学生に寛容な社会に変わってくれればなと思う面もあります。

一方、卒業してすぐに就職したことで、「周囲のモノを商品に変える」能力は身につきました。 社会人2年目ぐらいのことでしょうか。上司と営業車で街を走り、会話なくぼんやり街並みを眺めていると、「どこに自社の製品が使われているか、どこに使ってもらえそうか、考えながら走るんやで」と言われたことを思い出します。

「商品化せず、コモンズを増やしていく」という考え方のほうが、いまは馴染む場面もあります。

個人的には、「脱成長」という言葉は好きではありません。 今の日本は衰退フェーズにあるのかもしれませんが、「脱成長」を標榜してしまうと、もう成長がない終わった国と認めるようでなんだか寂しいです。

「コモンの再生」あたりが最も馴染みやすい表現かもしれません。

斎藤幸平さんのメッセージは提言すべてに賛同できなくても、心に響くものがあります。 「資本論」のエッセンスを新書で気軽に学びたい方に、ぜひおすすめします。

以上、長文お読みいただきありがとうございました。

<参考文献>
斎藤幸平『ゼロからの資本論』(NHK出版, 2023)
白井聡『武器としての資本論』(東洋経済新報社, 2020)

【おすすめ本&講義動画】FP2級合格するためにやったこと

2023年1月実施のファイナンシャルプランナー2級試験(FP協会)を受けてきました。

自己採点にて学科、実技とも合格ラインに達していることを確認しました。 2022年9月下旬に3級を受験し、4ヶ月弱という勉強時間でしたが、なんとか最短でFP2級を取得できそうです。

本記事では、参考にした書籍・講義動画、勉強して良かったこと等についてご紹介します。

おすすめ参考書

まずはテキストと問題集です。

問題集は、以下の書籍を使用しました。

問題集のイチオシポイント

  • 右に問題、左に解説と、見開き1ページで完結していて使いやすい。
  • 学科試験の対策がしやすい
    • 1章;42問、2章;35問、3章;39問、4章;35問、5章;31問、6章;41問
    • 合計223問×4択をマスターすれば、学科試験で問われる問題の大部分をカバーできる
  • 持ち歩きにも負担の少ない重量
  • 実技試験問題も充実しており、解き方の解説が詳しい

問題集の使い方

  • 4択すべての正誤に目を通す。回答できたものは☑、回答できなかったものは□をつけることにした。※○✗をつけると紛らわしいため
  • 1周目はほとんどの問題を間違える上、用語の意味が分からないため、テキストで調べながら説いていく。
  • 2周目も同様に□☑をつけていく。難しい論点は、講義動画を見たりテキストを参照したりして、ポイントをメモっておく。
  • 3周目に間違えたor分からなかった選択肢は、間違いノートとして別ノートに転記する。

1周目は1ヶ月半ぐらいかけて、調べながら問題を解きます。 けれどあまり時間を使いすぎると先に進めないので、まずは問題全体に目を通すことを重視しました。 わからない問題はチェックをつけておいて、サクサクと先に進んでいきます。

2周目は初見と比べるとかなりラクになりますが、それでも大部分の問題を間違えます。 挫折ポイントがあるとすれば、ここで難しい論点に出会った際にお手上げになってしまうことです。
ex.) 年金制度の細かい論点、居住用財産の譲渡特例、借地借家法など

ここに関しては、後述する講義動画などを参考にしながら乗り切りました。

3周目にかかる時期は、試験の2週間前でした。 まだ理解できていない単語が多数あったので、別ノートに転記して試験前に見直せるようにしました。 間違いノートについては、簿記2級を取得した際、試験直前に効果があったので、同じ方法を使いました。

machiyukimurayuki.com

私は試験3ヶ月前から直前まで、ずっとこの問題集を解くことに時間を使いました。 そういう意味では、勉強に際して最も活用した参考書でした。 要点などもテキストではなく問題集に記載していき、コレ一冊持ち歩けば良いように知識を一元化するようにしました。

▲問題集には要点を書込み、一元化する

テキストの選び方

次にテキストですが、以下の条件に適しているものをセレクトしました。

  • 最新版であること ※法改正で毎年数値が変わるため
  • 大手出版社から出版されていること
  • 辞書的に使いやすく、網羅性の高いもの

私は問題集と同じ出版社のテキストを使用しました。見開きの見やすさなどを重視して好みで選びました。 問題集とは違う出版社のテキストを選ぶと、辞書を引くようにテキストを参照するので、勉強になるかもしれません。

実技試験対策には過去問を活用する

実技試験は毎回出題されるパターンがあるため、過去問の活用しました。 問題集にはFP協会向けの実技試験対策問題の掲載が少なかったため、過去問を過去5回分ほど解きました。 計算問題が多いので、時間内で解けるようにパターンをつかんでおきます。

過去問はFP協会の公式WEBページにアップされているものを活用しました。 解説はどこのサイトも充実しているのですが、2級FP過去問解説を参考にしていました。

おすすめ講義動画

最もよく視聴した講義動画は、FP界隈では定番のほんださんのチャンネルです。

ほんださん / 東大式FPチャンネル 


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3級レベルであれば、各分野の爆速講義を視聴し過去問を過去2回分ほど解くと合格ラインに乗れると思います。 必要な知識がギュッとコンパクトにまとめられていてFP入門にはぴったりです。

2級となるとさすがに難しい論点が増えたので、ポイント解説の動画を見直しました。 特に「テーマ別解説」の講義動画が素晴らしく、社会保障分野の細かい論点など、ほんださんの動画がなければ挫折して諦めていたことでしょう。 これだけ質の高い動画をYou Tubeでアップしていただけることに感謝です。


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※1級受験生向けのテーマ集ですが、範囲外の部分は除外すれば使えます。

FPの試験対策という観点であれば、ほんださんのチャンネル一択で済んでしまいます。 問題は関心の薄い分野に出会った時、どのように興味の幅を広げるかという点です。 社会保障の分野、相続の分野などは、日常での経験がないと身近に感じることができません。 イメージが沸かないとテキストや問題を見ても、理解しようという意欲が湧いてこないでのです。

この問題を解決するために、私はFP対策以外の、特に税理士の方のチャンネルを参考にしました。

オタク会計士ch【山田真哉】少しだけお金で得する

「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」で有名な山田先生のチャンネル。 インボイス制度、e-taxを使った確定申告、新NISAなど、速報性高くわかりやすく解説いただいています。 このチャンネルを通じて、身近な税金の話題に興味を持つようになり、金融資産運用、タックス分野の対策にもなりました。

【円満相続ちゃんねる】税理士橘慶太

相続対策の書籍も書かれている橘先生の相続贈与に特化したチャンネル。 この分野は実生活で直面することがないとイメージしにくいですが、You Tubeの図解がとてもわかりやすいです。 相続贈与に関しては、自身の家族構成にも当てはめながら、法制度など理解を進めていく必要があるなと感じました。

聞いてわかる投資本要約チャンネル

タザキさんの金融本解説チャンネル。 税理士ではなくサラリーマンYouTuberとのことですが、聴くだけで勉強になります。 基本的には投資に関する本の解説ですが、金利に関する本の解説などを通じてマーケットに対する理解が深まりました。

おすすめ本

最も興味を持てなかった分野が「保険分野」でした。 この分野に少しでも興味を持つため、手にとったのが以下の書籍でした。

いらない保険 生命保険会社が知られたくない「本当の話」 (講談社+α新書) (後田亨, 永田宏)

年金、タックス、相続贈与に関しては、漫画が掲載されてい実用書を活用しました。 日常生活でのイメージが沸かない場合に漫画は理解を手助けしてくれます。 ナツメ舎から出版されている『いちばん親切な〜』シリーズがよかったです。 申請書類のフォーマットなども掲載されており、実務でも使えると思います。

FP2級を勉強してよかったこと

昨年6月に簿記2級を取得し、財務会計に関しては理解が深まりました。 一方で、社会保障、税金、ファイナンス分野に関しては専門用語が分からず戸惑うケースも多くありました。 私は中小企業の経営に携わっているため税理士の先生とお話する機会もあるのですが、自身に税金の知識がなければ、質問できる内容が限られてしまいます。 この点、最低限の専門知識を持ってお話ができるよう、基礎教養を身につけておく必要性を感じていました。

約半年間勉強してみて、FP試験は教養として勉強するだけでも満足度の高い資格だと感じました。 学習してよかったことは下記の通りです。

  1. 社会保障、相続贈与といった疎遠だった分野について学ぶことができた
  2. 不動産分野は苦手であると知ることができた
  3. 経済ニュースを多角的な視点で読めるようになった

疎遠だった社会保障、相続贈与分野について学べた

社会保障、特に年金分野については、国民皆保険であるにも関わらず、学校教育で社会人経験を通じて体系的に学べる機会がほとんどありません。老齢年金などについては、受給が差し迫ってはじめて興味が生まれる分野であり、20代、30代で年金について興味を持つという方が難しいのではと考えます。

FPを勉強するメリットのひとつは、間違いなくこの社会保障分野を学ぶことにあると考えます。 なぜなら、日本という国の社会保障を知ることで、自分や家族に必要な民間保険などについても知ることができるからです。 日常のリスク管理という点で、何に対して保険をかけるかを考えておく必要があります。 最初にすることは保険会社のプランを見るのではなく、まずはどんな社会保障があるのかを知ることが先なのです。

老齢年金だけではなく、障害年金、遺族年金などの年金制度についても知っておくこと。 また医療保険、雇用保険の制度について知ることで、大部分の終身保険や個人年金が不要であることに気づくことができました。

また相続贈与について、民法などで決められていることを学習できたことも大きかったです。 家族の相続贈与を考えるということは、親族ひとりひとりと向き合うということにもつながります。 長い人生の中で将来直面する課題について、その対処法を学ぶという点では勉強になりました。

不動産分野は苦手であると知る

私の場合、不動産分野が苦手であるということがよくわかりました。 実際、学科の自己採点では4/10点程度の正答率で、最後まで苦戦しました。 一方で金融資産運用の分野は最初から戸惑うことが少なく、本試験でもあまり苦労せず問題が解けました。

何らかの投資を行う際に、不動産投資(賃貸業、マンション経営、DIYリフォーム業など)が、自分には向かないんだなということがよくわかりました。 不動産に関しては、借地借家法や建築基準法と行った法制度について学ぶ必要もあるため、このあたりがスムーズに学べるかで理解度が変わるように感じました。

経済ニュースを多角的な視点で読めるようになった

税制改正は国の施策の大きな節目になります。 先日も2024年から始まる新NISAの大枠が明らかになったことで盛り上がりました。 こういった日々の経済ニュースがあったときに、単に自分にとってのメリット/デメリットを考えるだけでなく、どういった目的があって制度導入しているのか、どういった層に対してアプローチしたいのかなど、多角的な視点でニュースを見れるようになりました。 特に日経新聞など金融や資産運用などをテーマにしたメディアを読む際には、FPで学ぶ知識は役に立つと感じました。


約半年間の勉強を通じて、活用した参考書や講義動画、受験した雑感などをまとめてみました。

ファイナンシャル・プランナーは、2級までであれば合格に向けた優秀なコンテンツが出揃っており、独学で十分に学習可能です。 個人的には簿記2級と比較して難易度が多少容易なレベルかなと感じました。 (暗記が得意であればFP、計算が得意であれば簿記の方が向いているなど特性による差はありそうですが)

これから受験を考えている方の何かの参考になればうれしいです。

以上、長文お読みいただきありがとうございました。

2023/01/29

【書評・感想】『密やかな結晶』を読んで、記憶と物語について考える

小川洋子さんの『密やかな結晶』という小説を読み終えた。

20年以上前の作品なのですが、近年になって海外でも広く読まれるようになり、2020年にブッカー国際賞の最終候補作にもなったようだ。 昨年になって新装版となって文庫で出版された。

新装版 『密やかな結晶』

英語版 ”The Memory Police”

The Memory Police

The Memory Police

Amazon

英訳版は、「記憶狩り」を行う”秘密警察”がタイトルになっている。 事実とそれに基づく記憶が軽んじられる「ポスト・トゥルース」時代の文学としても読まれているという。

記憶を不条理に奪われていく世界において、人は生きていくことが可能なのか。 自らの記憶体験と重ねながら、読んでみることにした。

登場人物とあらすじ

主人公である”わたし”は、ある島の中で小説を書いて暮らしている。 この島は”秘密警察”が取り仕切っていて、ある日突然、概念の消滅が起きる。消滅が起きてしまったら、人々はそのものの記憶を捨て去るしかない。

“わたし”は母親と暮らしていたが、母親は消滅が起きても記憶を消失しない人だったので、秘密警察に連行され、幼い頃に離れ離れとなった。

いまの“わたし”には大切な人が二人いる。 ひとりは、毎日散歩をしている時に言葉を交わすおじいさん。彼もまた記憶狩りが起こると、記憶が消滅する。 もうひとりは、私の書く小説の編集者であるR氏。彼は記憶狩りがあっても消滅に遭わず、記憶を保持し続けることができる。

しかし、R氏は母親と同じように、いつか連れ去られる運命にあるため、わたしはおじいさんと協力して彼を自宅の一室にかくまう計画を立てる。

島では次第に”秘密警察”の取締りが厳しくなり、あらゆる概念の消滅が続いていき、島の人たちにとって大切なものが次々と姿を消していく。 果たして三人は、消滅を繰り返す島で、どのような結末を迎えるのだろうか。

記憶は時間をうまく測れない

物語の行方からは一旦離れて、この先は記憶について考えてみる。

人間は、起きた出来事のすべてを記憶できるわけではない。 私たちの生きる世界では、小説の設定のように「消滅」は起きなくとも、必要でない記憶はやんわりと姿を消していく。

例えば、5年前に家族や友人と行った旅行のことを思い返してみる。 その時に撮った写真や、旅行中に買ったお土産などは手元にないものとする。 2泊3日の行程があったとして、そのうちどれだけの場面を覚えているだろうか。

24時間×3日分もの時間があったはずなのに、思い出される場面はほんの一部だ。 全体として、楽しかった、たくさん笑った、切なかった、などと総括をすることができたとしても、切り取られて想起される場面は限られたものだ。

行動経済学者ダニエル・カーネマンは、「経験と記憶の謎」と題したTEDスピーチで、この話題に触れている。 私たちには、「経験する自己」と「記憶する自己」のふたつの自己があって、それらは別々の観念であるというのだ。

digitalcast.jp

病院へ行って、「いま痛みますか?」という質問に答えるのが、「経験する自己」。
一方で「この一週間どうでしたか?」という質問に答えるのが、「記憶する自己」。

人間は往々にして「経験する自己」よりも「記憶する自己」を重視するのだという。 ある意味では、記憶の積み重ねがその人自身をつくっているともいえる。

けれども、記憶とは決して正確に測られたものではなく、曖昧なものだ。 コンピューターのメモリ媒体のように、時間と出来事を正確に結びつけて記憶しておくことなどできない。 また記憶された場面を、同じ割合で圧縮させて保存しておくことなどできない。

10年前の出来事で忘れてしまうこともあれば、20年前の出来事なのに覚えていることだってある。 2002年の日韓ワールドカップのとき、私は中学生だった。 昼休みに教室でサッカー好きな友人と興奮して話していた場面を、今でも思い出すことができる。 その時のFIFAガイドブックと弁当と、教室の風景とともに。

そのようにして、過去に経験したいくつかの場面だけが、切り取られた写真のように記憶に刻まれていく。 このことを、著者は「記憶の結晶」という形で表現したのではないか。

記憶の結晶を紡ぎ、物語をつくること

小川さんは、「密やかな結晶」を執筆中、アンネ・フランク「アンネの日記」を並行して読んでいたという。 アンネは、自らの中に宿る記憶を書き起こし、物語として残すことで、何もかも奪っていく「ナチス・ドイツ」への抵抗を試みた。

本書の主人公”わたし”も、記憶を奪われ、概念が次第に消失する島で、R氏の励ましの中で懸命に執筆を試みる。 書いた翌日には内容を忘れているため、執筆はうまくは進まない。それでも、言葉を紡ぎ、書き残し、物語をつくっていく。 アンネと同じやり方で、何もかもを奪っていく”秘密警察”に対抗しようとする。

「ポスト・トゥルースの時代」と言われる。 美しく壮大なストーリーだけが叫ばれひとり歩きしていることが、時に悲しくなったりする。 ネットメディアで拡散されることによって、いかにもそれが「ただひとつの正解」であるかのように報じられる。

けれども、一人ひとりが抱えている物語は、きっとそれほど美しく壮大なものではないと、私は思う。 本書の小説家である”わたし”のように、アンネ・フランクのように、個人の結晶化した記憶を紡いでいくこと。 それが「誇張されたストーリー」に巻き込まれないための術になるのではないか。

『密やかな結晶』は、日本人の繊細な感性が読める素晴らしい小説と感じた。

2023/1/9

<参考文献>
小川洋子『密やかな結晶』(講談社, 1994)
ダニエル・カーネマン『ファスト・アンド・スロー』(早川書房, 2012)



「ウォーホル・キョウト」と「ぼくの哲学」

「アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO」へ行ってきました。 京都市京セラ美術館で開催中の展覧会で、本来はコロナ前に予定されていたものが延期になって今年の開催になったようです。

ANDY WARHOL KYOTO

アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO

アンディ・ウォーホルは、20世紀後半を代表するアーティストです。 名前を知らなくても、キャンベル・スープ缶やマリリン・モンローといった作品は、誰もが一度は目にしたことがあるでしょう。 20世紀後半はアメリカ文化が世界を風靡した時代でしたが、その波に乗るようにして、彼は人気アーティストとなります。 美術・音楽・映画などジャンルを横断したマルチなアーティストでもあり、メディアとの相性もよく、彼の関わったプロダクト・デザインは大衆文化の中にも一気に溶け込んでいきました。

そんなウォーホルですが、生前にはエッセイ集を出版しています。 赤いポップな表紙が印象的な、「ぼくの哲学」という本です。 (英版タイトルは”THE Philosophy of Andy Warhol”)

日記のような軽いタッチで書かれていて、ウォーホルの日常や頭の中を覗けるような内容になっています。 展示作品を振り返りながら、本書からいくつかウォーホルの言葉を紹介します。

イラストレータ時代・京都滞在

1950年代から1960年代にかけて、商業イラストレーターとしてキャリアをスタートさせます。ニューヨークへ渡ったウォーホルは、雑誌・広告業界でたちまち人気のクリエーターとなります。 この頃の作品は、とにかくポップでカワイイ。デザインセンスに溢れていて、すぐに人気が出たのもうなずけます。

▲『ピエールおじさんに似ている猫』ほか

▲『蝶々のケーキ』

▲『I Love You So』

1956年には「ご褒美」として世界旅行にでかけます。 世界各国を回る中で日本にも訪れ、東京・京都の文化に接します。 カメラを持たず、スケッチブックを持って旅をしたようです。

▲『京都(舞妓)1956年7月3日』

絵やイラストについては、考えて描いてはダメというようなことを言っていますね。

「絵についてはいろいろ考えたらダメになると思う。……絵に対するぼくの本能は、『考えなかったら大丈夫』というもの。消えたり選んだりしなくちゃいけなくなった瞬間、それはもうダメ。決断することが多いほど、ダメになっていく。抽象画を描く連中には、座って絵について考えてるのがいるけど、考えることで何かをしている気になってるんだな。僕の場合、考えても何もしてないのと同じなんだ」

ポップアーティスト・ウォーホル誕生

ウォーホル芸術の代名詞と呼べるのは「キャンベル・スープ缶」でしょう。

1962年、イラストレーターの職を捨てて美術界で展覧会を開くようになります。 32点のキャンベル・スープ缶を並べたものが、実質的なアーティスト・デビュー作でした。ここから、「ファクトリー」と名付けられたスタジオにて、作品制作がはじまります。

▲『キャンベルスープ缶』

一体なぜこれほど無機質な作品が評価されたのでしょうか。

ポイントは、基本理念である「機械になりたい」という言葉に表れています。 シルクスクリーンという手法を使って、自分で絵を描かずに、何度でも複製できる。 大量生産・大量消費の象徴的な製品を取り上げることで、没個性的な作品を作り上げることができる。そこには、「主題やオリジナリティがあってはじめて芸術である」という既存の美術概念への否定がありました。

「すべてのコークはおいしい」を体現したアートだったのです。

「この国の素晴らしいところは、大金持ちでも極貧民でも同じものを消費するってこと。テレビを見ればコカ・コーラが映るけど、大統領もコークを飲めば、リズ・テイラーもコークを飲む、で、考えたらきみもコークを飲めるんだ。コークはコークだし、どんなにお金を出したって街角の浮浪者が飲んでるのよりおいしいコークなんて買えない。コークはすべて同じだし、すべてのコークはおいしい」

著名人

俳優・女優・ミュージシャンら著名人の肖像画をモチーフにした作品も多く制作されました。最も有名なものは、マリリン・モンローの作品群でしょう。 実はこのマリリン、ただ一点の写真から取られているのです。元ネタは一つしか存在しないのです。

▲『三つのマリリン』

マリリンの他にも、著名人の肖像画をモチーフにした作品は多数制作されています。 当時は「ウォーホルに描かれると有名人になれる」ということで、モデルを名乗り出る人が後をたたなかったようです。

▲著名人たちの肖像画

シルヴェスター・スタローン、アレサ・フランクリン、坂本龍一。 誰もが知る著名人たちですが、どこか物悲しげな表情をしていませんか。 シルクスクリーンによって色彩を持った顔は、写真とは違った独自の表情を持ち始めます。彼が描きたかったのは、華やかな世界と孤独で物悲しげな世界の二面性でした。

「美しい時期」とは、人に二面性が宿る時期のことを言うのでしょうか。

> ぼくは美しくない人に会ったことがない。 だれでも一生のうちに美しい時期がある。美しい時期がみんなそれぞれ違う段階であるんだ。

ポップで華やかな作品のイメージの強いウォーホルですが、「死」をテーマにした作品をも多く制作しています。 特に著名人の肖像画とは対象的な、「無名な人の死」にこだわりました。 <自動車事故>や<ツナ缶の惨事>といった事件の写真イメージは反復され、大量消費社会が生んだ影の部分が反復されることを示します。 描かれるイメージは強烈であるほど、作家としての役割は小さくなり、どこまでも小さく扱われるはずだった事件が誇張されていきます。

アメリカ文化は豊かな社会を生んだだけではなく、一方で無作為な死を生みました。 著名人も無名な人も、等しく突然降りかかる死と向き合わなければならない。 そんな社会的な問題にもスポットライトを浴びせようとしたのです。

▲『ツナ缶の惨事』

1968年に撃たれたときから、ウォーホル自身も死と向き合い生きることになります。

ぼくは死ぬということを信じていない、起こったときにはいないからわからないからだ。死ぬ準備なんかしていないから何とも言えない。

【番外編】充実のミュージアムショップ

プロダクトと相性抜群のウォーホルデザインということもあり、グッズにはかなり期待していました。中でもカラフルな「タブレット缶」はどのデザインもポップに切り取られておすすめでした。

ミュージアムショップ

京の老舗コーナーなんかもあって、銘菓好きにはたまらないコラボが実現していました。 「村上開新堂のクッキー」が手土産に良さそうでしたが、人気のため品切れでした。

ミュージアムショップ2

ウォーホル展の感想

展示されている作品数はそれほど多くはなかったものの、ウォーホルの歴史を一通り追うことのできる良質な展示でした。 全作品スマホ撮影OKで、アプリによる解説もフリーと、コンテンツは充実していました。

私自身、ウォーホルは”熱烈なファン”とまではいかないものの、常に気になる存在ではありました。 20世紀後半の、天才アーティストの生涯ということで、作品を通じてアメリカ社会の光と影を覗き見したような気分になれます。

大量生産・大量消費のアメリカ社会は、そのすべてを肯定したいとは思いません。 けれども、ウォーホルのような作家がいたことで、時代の一場面が切り取られ、反復されることの意義を感じさせてくれます。

アンディ・ウォーホル・キョウト展は2023年2月まで開催中ということです。 京都の主要スポットでもコラボ展示があるようで、ぜひ京都に立ち寄られる機会があれば訪れてみてはいかがでしょうか。

<参考文献>
アンディ・ウォーホル著『ぼくの哲学』(新潮社、1998)
宮下規久朗『ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡』(光文社, 2010)