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「ウォーホル・キョウト」と「ぼくの哲学」

「アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO」へ行ってきました。 京都市京セラ美術館で開催中の展覧会で、本来はコロナ前に予定されていたものが延期になって今年の開催になったようです。

ANDY WARHOL KYOTO

アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO

アンディ・ウォーホルは、20世紀後半を代表するアーティストです。 名前を知らなくても、キャンベル・スープ缶やマリリン・モンローといった作品は、誰もが一度は目にしたことがあるでしょう。 20世紀後半はアメリカ文化が世界を風靡した時代でしたが、その波に乗るようにして、彼は人気アーティストとなります。 美術・音楽・映画などジャンルを横断したマルチなアーティストでもあり、メディアとの相性もよく、彼の関わったプロダクト・デザインは大衆文化の中にも一気に溶け込んでいきました。

そんなウォーホルですが、生前にはエッセイ集を出版しています。 赤いポップな表紙が印象的な、「ぼくの哲学」という本です。 (英版タイトルは”THE Philosophy of Andy Warhol”)

日記のような軽いタッチで書かれていて、ウォーホルの日常や頭の中を覗けるような内容になっています。 展示作品を振り返りながら、本書からいくつかウォーホルの言葉を紹介します。

イラストレータ時代・京都滞在

1950年代から1960年代にかけて、商業イラストレーターとしてキャリアをスタートさせます。ニューヨークへ渡ったウォーホルは、雑誌・広告業界でたちまち人気のクリエーターとなります。 この頃の作品は、とにかくポップでカワイイ。デザインセンスに溢れていて、すぐに人気が出たのもうなずけます。

▲『ピエールおじさんに似ている猫』ほか

▲『蝶々のケーキ』

▲『I Love You So』

1956年には「ご褒美」として世界旅行にでかけます。 世界各国を回る中で日本にも訪れ、東京・京都の文化に接します。 カメラを持たず、スケッチブックを持って旅をしたようです。

▲『京都(舞妓)1956年7月3日』

絵やイラストについては、考えて描いてはダメというようなことを言っていますね。

「絵についてはいろいろ考えたらダメになると思う。……絵に対するぼくの本能は、『考えなかったら大丈夫』というもの。消えたり選んだりしなくちゃいけなくなった瞬間、それはもうダメ。決断することが多いほど、ダメになっていく。抽象画を描く連中には、座って絵について考えてるのがいるけど、考えることで何かをしている気になってるんだな。僕の場合、考えても何もしてないのと同じなんだ」

ポップアーティスト・ウォーホル誕生

ウォーホル芸術の代名詞と呼べるのは「キャンベル・スープ缶」でしょう。

1962年、イラストレーターの職を捨てて美術界で展覧会を開くようになります。 32点のキャンベル・スープ缶を並べたものが、実質的なアーティスト・デビュー作でした。ここから、「ファクトリー」と名付けられたスタジオにて、作品制作がはじまります。

▲『キャンベルスープ缶』

一体なぜこれほど無機質な作品が評価されたのでしょうか。

ポイントは、基本理念である「機械になりたい」という言葉に表れています。 シルクスクリーンという手法を使って、自分で絵を描かずに、何度でも複製できる。 大量生産・大量消費の象徴的な製品を取り上げることで、没個性的な作品を作り上げることができる。そこには、「主題やオリジナリティがあってはじめて芸術である」という既存の美術概念への否定がありました。

「すべてのコークはおいしい」を体現したアートだったのです。

「この国の素晴らしいところは、大金持ちでも極貧民でも同じものを消費するってこと。テレビを見ればコカ・コーラが映るけど、大統領もコークを飲めば、リズ・テイラーもコークを飲む、で、考えたらきみもコークを飲めるんだ。コークはコークだし、どんなにお金を出したって街角の浮浪者が飲んでるのよりおいしいコークなんて買えない。コークはすべて同じだし、すべてのコークはおいしい」

著名人

俳優・女優・ミュージシャンら著名人の肖像画をモチーフにした作品も多く制作されました。最も有名なものは、マリリン・モンローの作品群でしょう。 実はこのマリリン、ただ一点の写真から取られているのです。元ネタは一つしか存在しないのです。

▲『三つのマリリン』

マリリンの他にも、著名人の肖像画をモチーフにした作品は多数制作されています。 当時は「ウォーホルに描かれると有名人になれる」ということで、モデルを名乗り出る人が後をたたなかったようです。

▲著名人たちの肖像画

シルヴェスター・スタローン、アレサ・フランクリン、坂本龍一。 誰もが知る著名人たちですが、どこか物悲しげな表情をしていませんか。 シルクスクリーンによって色彩を持った顔は、写真とは違った独自の表情を持ち始めます。彼が描きたかったのは、華やかな世界と孤独で物悲しげな世界の二面性でした。

「美しい時期」とは、人に二面性が宿る時期のことを言うのでしょうか。

> ぼくは美しくない人に会ったことがない。 だれでも一生のうちに美しい時期がある。美しい時期がみんなそれぞれ違う段階であるんだ。

ポップで華やかな作品のイメージの強いウォーホルですが、「死」をテーマにした作品をも多く制作しています。 特に著名人の肖像画とは対象的な、「無名な人の死」にこだわりました。 <自動車事故>や<ツナ缶の惨事>といった事件の写真イメージは反復され、大量消費社会が生んだ影の部分が反復されることを示します。 描かれるイメージは強烈であるほど、作家としての役割は小さくなり、どこまでも小さく扱われるはずだった事件が誇張されていきます。

アメリカ文化は豊かな社会を生んだだけではなく、一方で無作為な死を生みました。 著名人も無名な人も、等しく突然降りかかる死と向き合わなければならない。 そんな社会的な問題にもスポットライトを浴びせようとしたのです。

▲『ツナ缶の惨事』

1968年に撃たれたときから、ウォーホル自身も死と向き合い生きることになります。

ぼくは死ぬということを信じていない、起こったときにはいないからわからないからだ。死ぬ準備なんかしていないから何とも言えない。

【番外編】充実のミュージアムショップ

プロダクトと相性抜群のウォーホルデザインということもあり、グッズにはかなり期待していました。中でもカラフルな「タブレット缶」はどのデザインもポップに切り取られておすすめでした。

ミュージアムショップ

京の老舗コーナーなんかもあって、銘菓好きにはたまらないコラボが実現していました。 「村上開新堂のクッキー」が手土産に良さそうでしたが、人気のため品切れでした。

ミュージアムショップ2

ウォーホル展の感想

展示されている作品数はそれほど多くはなかったものの、ウォーホルの歴史を一通り追うことのできる良質な展示でした。 全作品スマホ撮影OKで、アプリによる解説もフリーと、コンテンツは充実していました。

私自身、ウォーホルは”熱烈なファン”とまではいかないものの、常に気になる存在ではありました。 20世紀後半の、天才アーティストの生涯ということで、作品を通じてアメリカ社会の光と影を覗き見したような気分になれます。

大量生産・大量消費のアメリカ社会は、そのすべてを肯定したいとは思いません。 けれども、ウォーホルのような作家がいたことで、時代の一場面が切り取られ、反復されることの意義を感じさせてくれます。

アンディ・ウォーホル・キョウト展は2023年2月まで開催中ということです。 京都の主要スポットでもコラボ展示があるようで、ぜひ京都に立ち寄られる機会があれば訪れてみてはいかがでしょうか。

<参考文献>
アンディ・ウォーホル著『ぼくの哲学』(新潮社、1998)
宮下規久朗『ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡』(光文社, 2010)