街行き村行き

明日あたりは、きっと山行き

『君たちはどう生きるか』をみて。地球儀を回すということ。

セミがシャンシャンと鳴き始め、早朝から目が覚める。
すっかり夏らしい気候になってきた。

先日、話題の映画『君たちはどう生きるか』をみてきた。
事前情報一切ナシでの映画鑑賞は新鮮だった。

エンディングで流れた米津玄師『地球儀』が力強いメッセージ性のある爽やかな一曲で、素直に感動した。
今までとりたててファンというわけでもなかったが、宮崎駿監督に捧ぐ心意気を感じた。
きっとサマーウォーズの『僕らの夏の夢』のように、この季節が来るたびに聴き直したくなるだろう。

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を思い出して、ぐるぐると思考が巡った。 映画をみて、主題歌を聴いて、感じたことを言葉にしてみる。


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米津玄師『地球儀』

僕が生まれた日の空は 高く遠く晴れ渡っていた
行っておいでと背中を撫でる 声を聞いたあの日

季節の中ですれ違い 時に人を傷つけながら
光に触れて影を伸ばして 更に空は遠く

風を受け走り出す 瓦礫を越えていく
この道の行く先に 誰かが待っている
光さす夢を見る いつの日も
扉を今開け放つ 秘密を暴くように
飽き足らず思い馳せる 地球儀を回すように

僕が愛したあの人は 誰も知らないところへ行った
あの日のままの優しい顔で 今もどこか遠く

雨を受け歌い出す 人目も構わず
この道が続くのは 続けと願ったから
また出会う夢を見る いつまでも
一欠片握り込んだ 秘密を忘れぬように
最後まで思い馳せる 地球儀を回すように

小さな自分の 正しい願いから始まるもの
ひとつ寂しさを抱え 僕は道を曲がる

風を受け走り出す 瓦礫を越えていく
この道の行く先に 誰かが待っている
光さす夢を見る いつの日も
扉を今開け放つ 秘密を暴くように
手が触れ合う喜びも 手放した悲しみも
飽き足らず描いていく 地球儀を回すように

地球儀

地球儀

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

僕らが生まれた時は、ただまっすぐに空が見えているだけだった。
ただそこには、限りなく世界が広がっているような気がした。それは自分にとって心地良いものであるべきだと思った。
次第に母の存在を知り、父の存在を知り、家族の存在を知り、周囲にある存在の輪郭が少しずつ見えてくるようになった。
この調子で、世界は自分にとってとても居心地の良い場所として作られていくだろうと思った。

でもそれはすぐに間違いだということがわかる。
一歩家を出てみると、周囲にはいろんな人たちが歩いている。
仲良くしてくれる人もいれば、いじめてくる人もいる。楽しい瞬間もあれば、苦しい瞬間もある。痛みを伴うような出来事もある。
ときには無条件に愛をくれていた人が、突然去ってしまうことだってある。
そんな時に、この世界はなんと残酷なんだろうと感じ、世界を恨み始める。

けれども、目の前には道が続いているから、とりあえず歩き出さなければならない。
何を目的にして生きていくかを決めなければならない。
けれども、それをいくら机の上で探し続けていても、見つかることはない。
どれだけの本を読んでも、過去の偉人の言葉に触れたとしても、それは見つからない。
過去の言葉は美しく残っているから、その言葉たちだけが自分を理解してくれているような錯覚に陥る。
現実を見ると、周囲にいる人たちは私のことを一向に理解してくれない。
そのように考え始めると、この世界に失望し、心を閉ざしたくなる。

まだ幼かった頃、よく祖父母に連れられてデパートの屋上へ行った。
そこには子供が遊べるようなミニアトラクションがあって、それに乗って遊ばせてもらった。
吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」のコペル君のようだ。
コペル君がおじさんに連れられて、デパートの屋上に行ってみると、そこから見える人たちが粒のように小さく目に飛び込んでくる。
あれほど目の前では大きかった大人たちが、どこまでも小さく見える。

”It's a Small World”

この世界は何と小さくできているのだろう。
少し頑張ればおもちゃの積み木のように組み立てられてしまいそうだ。
けれども、自分は彼らのことを一体どれだけ知っているだろうか。
コペル君はおじさんから教えてもらう。人と人とは多くの関係性の上に成り立っているから、自分だけの世界で物を見てはいけない。
コペル君は、この法則を「人間分子の関係、網目の法則」と名付けた。
自分は世界を構成するたった1人の人間でしかないことを認知したのだ。

この法則を知ってから世の中に冒険に出てみると、自分以外の人たちのストーリーが少しずつ目に飛び込んでくる。
それは人だけではなく、生き物たちの世界もまた同じである。
彼らはきっと、自分とは全く違う理由で存在していて、全く違うことを考えていて、全く違うことを糧に生きている。
だから、最初はなぜそこにいるのかが理解できない。けれども、じっくりと向き合ってみると、彼らの世界が見えてくる。

生きていると、必ず憎い人に出会う。もう話したくないような人。接点を持ちたくないような人。
周囲がそんな人ばかり見えてくるつらい時期もある。そんな時はこの世界を投げ出したくなる。
けれども、ふと立ち止まって考えてみる。
なぜそんなにひどいことを言うのだろう。
めげずに向き合っていると、その理由に気づき始める。
彼らは、自分とは全く別の世界を生きているのだということを知る。

では目に触れないもの、話したくない人とは、関係を持たなくて良いのだろうか。
きっとそうではない。
「人間分子の関係、網目の法則」が存在するならば、彼らとも一定の距離を持って関係を保たなければならない理由があるのだ。 彼らは時に自分を攻撃し、互いに痛みを伴うこともある。でもそれが人間として生きるというものだ。

もし世界が自分の好きなものだけで囲まれていて、理想とするものだけでできていて、その中で生きられるとして、それは幸せなことだろうか。 例えばその世界を、全知全能の神のように構築できるとして、その作業は本当に楽しいものだろうか。
そこにはある視点が欠けている。周りには誰もいないのだ。

ただ理想だけを追い求めて、ひとりで積み木を組み立てるように創造した世界は、いつかは崩れてしまう。
片時も目を離さずに、ひとりで積み木を支え続けることなんて、到底できない。
だから周囲の誰かがそこに手を貸してくれるのであれば、その人と手をとるべきである。
それが自分にとって憎い人であったとしても。それが社会を生きるということだ。

理想の地球儀を想像してみる。
ひとりひとりにとっての地球儀は違っているから、共同作業はときに大変だ。
まったく予想もしなかった色が塗られてしまう場合もある。
回転が早すぎると感じることもある。
けれども誰かが地球儀を描いて回すことで、道がぱっと開けることがある。

ひとつの地球儀をみて、自分の小ささを痛感する。
一方で、その小さくミクロな世界を大事にしていこうとも思った。

<参考>
米津玄師『地球儀』
https://www.kkbox.com/jp/ja/song/8ng7FFpFMjx8RJy-qf

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫(1937)