パイ・インターナショナル社から出版されている「ビジュアルブック」が評判がよいということで、 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』を手にとってみました。
英訳版タイトルは『In Praise of Shadows』。こちらの方が直接的な表現で意図が伝わりやすいです。 谷崎の本はどれも最初は格式高い日本語にたじろぐのですが、読んでいくと魔術に取り込まれたように病みつきになるんですよね。不思議な作家です。
写真家・大川裕弘が谷崎の文章にあわせて写真を掲載していて、陰翳礼讃の世界観がより視覚的にイメージしやすい仕上がりになっています。
写真も光と影を活用したアートであることには違いなく、太陽の光をどこまで入れ込むかによって、同じ景色でもまったく仕上がりが変わってきます。
(よく日の出や日の入りは「ゴールデンタイム」と呼ばれます。)
そういう意味では、光と影の表現は、「文章」よりも「写真」が得意とする領域なのかもしれません。
そこをあえて文章のみで表現したところに、この本の魅力がつまっているといえるでしょう。 この記事では、紹介されているテーマの中でも気になったものをいくつか取り上げてみます。
目次
紹介されているテーマ
西洋から輸入された文明の利器について
文明の利器を取り入れるのにも勿論異議はないけれども、
それならそれで、なぜもう少しわれわれの習慣や趣味生活を重んじ、
それに順応するように改良を加えないのであろうか
照明、暖房、そして便器など、西洋から輸入された文明の利器について語られます。 もう少し日本人の趣味趣向にあった形で進化すればよかったのにと嘆いています。 西洋人が頭から不浄扱いした「厠」でさえ、日本人は「風流あるもの」に変えてしまったといいます。
「さえば日本の建築の中で、一番風流にできているのは厠であるとも云えなくない。」
廁、絶賛です。 今となっては、かえって「別棟にある廁」など面倒で嫌う人の方も多そうですが。 戦後になると照明や暖房などが「品質の良い日本製品」としてもてはやされたのも、皮肉ではあります。
声や音楽における「間」について
蓄音機やラジオにしても、もしわれわれが発明したなら、
もっとわれわれの声や音楽の特長を生かすようなものが出来たであろう。
(中略)
話術にしてもわれわれの方のは声が小さく、言葉数が少く、
そうして何よりも「間」が大切なのであるが、
機械にかけたら「間」は完全に死んでしまう。
そこでわれわれは、機械に迎合するように、却ってわれわれの芸術自体を歪めて行く。
西洋人の方は、もともと自分たちの間で発達させた機械であるから、
彼等の都合のいいように出来ているのは当たり前である。
そう云う点で、われわれは実にいろいろの損をしていると考えられる。
20世紀に入っても日本に音楽が輸入されなかったとしたら。
例えばビートルズが流行らなかったり、黒人音楽であるジャズが入ってこなかったとしたら。
きっとまるっきり違った音楽文化になっていたでしょう。
けれども、「話術」に関しては今の時代でも理解できる部分はあります。
声が小さく、言葉数が少く、間を大切にする。
日本語は力強い演説には不向きですが、場に溶け込むにはよくできた言語ではありますね。
器物について
われわれは一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、
浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りあるものを好む。
それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、
必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光なのである。
西洋人は食器にも銀や鋼鉄やニッケル製のものを用いてピカピカに磨くが、われわれ日本人は「光るもの」を嫌うといいます。 東京に住んでいた頃、合羽橋の陶器屋へ行っていくつか食器を買いましたが、「形が均一でピカピカのもの」よりは「形が不揃いで手道具感のあるもの」を好みました。 なので谷崎のいう美的感覚がわからなくもないですね。
先日「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」と題された展示会がありました。 100年経っても民芸の価値が再評価されているのも、日本人に馴染み続けるものだからかもしれません。
料理やお菓子について
かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を賛美しておられたことがあったが、
そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。
玉のように半透明肉待った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って、
夢みる如きほの明るさをふくんでいると感じ、あの色合いの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。
クリームなどはあれに比べると何という浅はかさ、単純さであろう。
クリームのディスりっぷりに笑っていまいました。
生クリームとあんこの入ったどら焼きなど、どうなってしまうのでしょうか。
それはさておき、確かに羊羹は深みのある色づきをしていますね。
あのねっとりとしたつやのある汁がいかに陰翳に富み、闇と調和することか。
また白味噌や、豆腐や、蒲鉾や、とろろ汁や、白身の刺身や、
ああ云う白い肌のものも、周囲を明るくしたのでは色が引き立たない。
(中略)
かく考えてくると、われわれの料理が常に陰翳を基調とし、
闇というものと切っても切れない関係にあることを知るのである。
照明を落とした空間のほうが料理が美味しく見えるということがあります。
これは和食に限らず、洋食でもレストランでは演出として間接照明がよく利用されている様子をみかけます。
和食は淡白なものが多いので、単純に明るすぎる照明では料理がコントラストで負けてしまうということもあるのだと考えます。
なぜ暗がりの中に美を求めるのか
案ずるにわれわれ東洋人は己れの置かれた境遇の中に満足を求め、
現状に甘んじようとする風があるので、暗いということに不平を感ぜず、
それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、
却ってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する。
われわれ日本人は、日常に美を見出すのが得意だということでしょうか。
前出の厠もそうですが、「なんでもないものをいかに美しく見せるか」ということにこだわる人種なのですね。
生花にせよ、茶道にせよ、常に「引き算の美学」を感じます。
われわれの思索のしかたは、とかくそう云う風であって、
美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、
明暗にあると考える。
なんとカッコいい表現でしょう。
「陰翳のあや」。いつか使ってみたい。
この文章には、本書で谷崎が伝えたかったメッセージが詰まっているように感じました。
日本人の思索そのものに、陰翳や明暗といったコントラストによる対比を取り入れる文化が根付いているのかもしれません。
まとめ;美意識にも切替えが必要
『陰翳礼讃』は谷崎自身が他のエッセイでも述べているように、「西洋人に向けて」書かれたという部分が大きいと考えます。
そのためか、日本の美意識についてかなり贔屓目に書かれている印象を受けます。
言うなれば、ちょっと頑固なおじいちゃんから「昔の日本文化はよかったんじゃよー」と説教を受けているような気持ちになる面もあります。
懐古主義のおじいちゃんが同じ話ばかり繰り返すなら耳を塞ぎますが、海外でも読まれる続ける名著だけあって、とにかく文章表現がカッコいいです。
なので、スルッと最後まで読めてしまいます。
本書を読んでみた感想としては、美意識には切替えが必要だということです。日本の寺社仏閣などを訪れて、古来の日本文化を楽しむのであれば、本書のような楽しみ方は必要かもしれません。
けれども西欧文化が輸入されて100年以上たった今では、「西洋的な美」も十分に生活に溶け込んでいると考えます。
この文章はMacBookで書いていますが、谷崎が現代に生きていればApple社のデザインをどう評価したでしょうか。
「禅の趣を感じる」などと肯定的だったでしょうか。
それとも、「アルミニウム素材が均一で無機質すぎる」と評価したでしょうか。
プロダクトデザインに関しても、もはや「日本の美学」一辺倒では語れない時代になっています。
けれども、日本人として、日本古来の美を保ち続けていくためには、「陰翳のあや」を知っておく必要はあるでしょう。
以前に、本書でも写真が採用されている長谷寺を訪れたときのことです。
本堂を両側から眺められるようになっており、奥に見える景色が緑に色づいていて見事なコントラストを成していました。
このような風景をみて「美しい」と感じるのは、日本人ならではの感性でははないかと考えます。
▼長谷寺本堂(2021年4月後半撮影)
いずれの国の文化風土を楽しむにせよ、「日本人らしい感性」はずっと大事にしていきたいですね。
2022/06/19
<参考文献>
文:谷崎潤一郎 写真:大川裕弘『陰翳礼讃』(パイ・インターナショナル、2018)
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(角川ソフィア文庫、2014)
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