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【発見の秘訣は情緒のバランス】春宵十話(岡 潔・著)

岡潔という関西出身の世界的数学者を知ったのは、つい最近のこと。
特に代表的なエッセイである『春宵十話』は、本のレビューサイトなどでもよく取り上げられていて、天才数学者の書くエッセイとはどのようなものだろう?と興味がわいた。 和歌山県橋本市生まれ、晩年は奈良で過ごしたということで、今の私の住環境にも近く、親近感もあった。
1963年発行と半世紀以上前に書かれた内容だが、リズムよく読みやすく、また難しい仏教用語と独特の比喩表現とのギャップが妙に「カッコいい」とも思える随筆集だった。

学問は頭でやらない。情緒の中心でやる。

「人の中心は情緒である。」

本書で何度も繰り返し述べられる言葉である。

情緒という言葉は普段から使うことがないのでイメージしにくいが、情緒不安定という言葉は今でも使うことがある。 そこで私は、情緒を「情緒不安定の逆の状態」と理解してみることにした。

つまりは、「心が平穏を保っていて、その人らしさが発揮できている状態」と考えた。

岡先生の説明は以下のようなものである。

頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。
人には交感神経系統と副交感神経系統とあり、正常な状態では両方が平衡を保っているが、交感神経系統が主に働いているときは、数学の研究でいえばじわじわと少しずつある目標に詰め寄っているときで、気分からいうと内臓が板にはりつけられているみたいで、胃腸の動きはおさえられている。
副交感神経系統が主に働いているときは調子に乗ってどんどん書き進むことができる。そのかわり、胃腸の動きが早すぎて下痢をする。

交感神経と副交感神経とのバランスについては、以前に免疫学者である安保徹先生の「免疫革命」という本で読んだことがあった。 この本では、交感神経が優勢になりすぎるとガンになり、副交感神経が優勢になりすぎるとアレルギーを起こすとあった。

「春宵十話」の出版当時はガンやアレルギーといった現代病はまだ少なかっただろうから、副交感神経系の優勢が下痢なんだろうか。 などとバカなことを考えつつ、岡先生が生きていたころから神経系のバランスという考え方はあったのかと驚きだった。

岡先生は、数学を学ぶ喜びを「発見の鋭い喜び」と表現していて、これは発見前の緊張と、それに続く一種のゆるみがあって生まれると説いている。 例えば、碁を打ったあとの雲仙岳の途中トンネルを抜けた時だったり、セーヌ川の森林の森を抜けたときだったり、レマン湖畔の対岸へ渡る船に乗ったときだったりと、先生の発見は、常に問題を考えたあとの「自然の中で自然に」起こるのだという。

確かに、私も自転車で颯爽と走っているときや、森の中で仕事をした帰り道などに、ずっと考えた問題のヒントが咄嗟に浮かんでくることがある。 私は天才ではなく凡人の類なので問題が一挙に解決したりはしないが、似たような経験から類推すると、その秘密は「情緒のバランス」にあるのかもしれない。

学問は、知識の積み重ねだけでできるものではない。 人の心には緊張とゆるみのバランスがあり、その人の外側にある自然と調和することで、「発見の鋭い喜び」が生まれる。

岡先生のエピソードは、情緒を育む大切さを裏付けていた。

真善美と直観

「真善美」という言葉は、近年ベストセラーになった山口周著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』で触れていて、馴染みがあった。 ビジネスの判断にも「真善美」の感覚をもって律することが必要だという内容だったはずだ。

『春宵十話』では数学以外の分野では、芸術を教育することについて肯定的に書かれている。

数学の目標は真の中における調和であり、芸術の目標は美の中における調和である。どちらも調和という形で認められるという点で共通しており、そこに働いているのが情緒であるということも同じである。だから両者はふつう考えられている以上によく似ている。

岡先生にとっては、「真」は数学、「善」は仏教、「美」は芸術から学び、その共通点を探そうとした。 そして、「真善美」の感覚を磨くには、「直観」を鍛えなさいと述べている。

 日本文化史を研究しているある英国人が「明治維新は陽明学の手によって行なわれた」と評しているが、陽明学派のやり方は、日本人が中国から学んだというよりも、もともと昔から日本にあったものだと思う。その特徴は「直観から実践へ」ということである。それのうまくいったのが明治維新で、悪くいったのが二・二六事件や五・一五事件だといえる。情緒中心ということと、直観を疑わないですぐ実践に移すというのが昔からの特徴で、日本人は放っておいてもそのやり方でやってきた。それだけに直観の内容というのが大いに大切になってくるわけである。

日本人は、もともと「直観を実践に移すこと」に長けている民族だったというのだ。

このくにのありがたさは、ただそうしていればよいというところにあるので、哲学などいらないから、なかったのは当然であろう。
そして絶えず善行を行なっていると、だんだん情緒が美しくなっていって、その結果他の情緒がよくわかるようになり、それでますます善行を行なわずにいられないようになるのである。

言われてみれば、日本には古来から仏教のような宗教はあったが、「こう生きるべき」というような哲学などなかった。 個人の幸福を目標にするという生き方は、もともと日本人には馴染まず、「真善美」の判断基準である「直観」が道義的な教育の中で培われ受け継がれて来たのだ。

岡先生は、義務教育によってそういった価値観が破壊され、腐敗していくことに危機感をもっていた。 本書が出版された当時とは何ら変わらない義務教育が、半世紀たった今の日本でも続いている。

日本古来の教育があったのに、そこへ西洋的な個を育てる教育を持ち込んでしまった。 その矛盾が生きづらさとなって、今もまだ続いているのかもしれない。

奈良の良さ

晩年を奈良で過ごした岡先生は、奈良の良さについても語っている。

奈良は日本文化発祥の地で、民族としてのインフォリティ・コンプレックス(劣等感)がない、つまり他国との比較がまだない時代に生まれた文化の残る街だからこそ、魅力があるというのだ。

人も街も、他と比較をするから、他を真似てみたくなる。 そうしてまた、似たような街ができ、似たような文化が醸成される。

奈良の魅力は、きっとそういう現代的な視点とは別の部分にあるのだろう。
私ももうすこし長く住むようになれば、そんな土地の魅力を分かるようになるだろうか。

2021/10/23

▼アバタローさんの動画。宮沢賢治の朗読つき。


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