カズオ・イシグロの著作は、代表作『日の名残り』や『クララとお日さま』も好きで、他の作品も読みたいと思っていた。『遠い山なみの光』というタイトルが良くて、ずっと気になっていた。 2025年秋ごろに広瀬すず、二階堂ふみという豪華主演で映画化されるということもあって読み始めることにした。
第一部までは淡々とした日常描写が続いて少々退屈だったが、第二部から物語が展開しておもしろくなっていき、最後まで一気に読んだ。
登場人物と舞台設定
主人公の悦子は1980年代にイギリスの片田舎で暮らしている。そこに娘のニキが訪ねてきて、死別してしまった長女の景子のことを思い出し、自分がまだ妊娠していた頃の、戦後間もない長崎の街での思い出について振り返る。 回想物語の中心を成すのは三人の女性である。主人公の悦子、彼女の友人である佐知子、そして佐知子の娘・万里子。悦子は、教師であった緒方さんという義父に助けてもらい、その息子である二郎と結婚して暮らしている。戦後まもない長崎で時代が混乱期にありながらも、日常が続いてく様子が淡々と綴られる。
稲佐山ロープウェイの印象的なシーン
特に印象的なのは第二部の中盤で、3人の女性たちが長崎を全体を見渡すことのできる有名な稲佐山にロープウェーで登る場面である。このシーンがなんだか明るい兆しに溢れていて、全体的にダークなトーンの物語の中でも特に印象的に映る場面だ。そこでアメリカ人の夫人とふとっちょの男の子が登場し、万里子をからかったりするのだが、最終的には木登りで痛い目にあって自分で泣いて去っていくという展開がある。この部分もなぜか心に残る場面である。
物語の回想が終わり、悦子は娘のニキに「娘の景子と一緒にこの稲佐山のロープウェーを登ったんだよね」と思い出を語る場面がある。
「ああ、何もとくべつなことはなかったのよ。ただ思い出したという、それだけ。あの時は景子も幸せだったのよ。みんなでケーブルカーに乗ったの」わたしは笑ってニキをふりかえった。「そう、何もとくべつなことはなかったの。ただの幸せな思い出、それだけだわ」
しかし実際にロープウェーで登ったのは悦子、佐知子、万里子の3人であって、景子と一緒に登ったかどうかは定かではない。つまり物語の終盤に差し掛かるにつれて、佐知子と万里子との思い出が、景子と過ごしたはずの思い出と混合していき、その記憶が曖昧なものとなっていく。
佐知子という人物像を通じて
もう一つ魅力的なのは、佐知子という少々意地っ張りではあるが自立心の強い女性像だ。彼女は田舎の家族との生活を抜け出して長崎の街へ出てきて、さらにその生活も抜け出してアメリカ人と結婚して、神戸に行こうと計画している。その先に明るい未来が待っているかなんてわからないが、とにかく今いる場所から抜け出して自立しようとするのだ。
しかしそういった形で今いる場所から離れていくことを、娘の万里子は歓迎しているわけではない。彼女は絵を描いたり自分の世界に引きこもりがちで、度々行方不明になっては悦子が探しに行くという場面が出てくる。これも親子関係があまりうまくいっていないという描写であり、後々の悦子と景子の関係性を振り返るような構成になっている。
つまり2週間しか知り合わなかった佐知子という強烈な印象を残した友人を思い出すことによって、悦子もまた自分と子供との関係を思い出し、そこに残っている後悔や死別した喪失感といったものをなんとか消化しようとしている。そういう物語としても読める。
過去の記憶の物語を乗り越える
かつて小川洋子の『密やかな結晶』を読んだ時に、人の自己を形成する記憶について考えさせられたことがある。記憶とは結晶のようなもので、日常のいくつかの場面だけが切り取られて、それらが物語となって蓄積されていく。それは決して壮大な物語ではないが、その小さな物語の積み重ねがその人自身を作っていくのだ。
本書のテーマとして感じたのは、戦争や愛する家族との死別といった人生の喪失があった時に、その衝撃的な経験ゆえに人の記憶が歪められてしまうこともあるということである。しかし、ひとつひとつの場面を思い出せば、それは日常の出来事の連続であり、そこには光が見えるような強い憧れや楽しかった経験も含まれている。人が喪失を乗り越えるには、そういった過去の結晶となっていった日々を思い返すことにより、受け入れ難い事実を解釈し直す作業が必要となるのかもしれない。悦子のような大きな喪失の経験はなくても、誰もが何らかの思い出したくない過去を抱えながら生きている。そんな過去との向き合い方を考えさせられる物語だった。
<参考>
カズオ イシグロ (著), 小野寺 健 (翻訳)『遠い山なみの光』(早川書房, 2001)