まだ寒さの残る二月の末のことである。私はこの後に及んで新型コロナウイルスに感染した。特にニュースで感染症が流行しているという報道もなく、年末のインフルエンザ流行期とも外れていたというのに。
それから私は5日間の引きこもり生活を余儀なくされた。
ちょうどコロナに罹患する少し前、私はフランツ・カフカの『変身』を読み返していた。なぜ『変身』をこの時期に読みたくなったのかわからないが、とにかくカフカを読みたくなって、彼の最も有名な作品を手に取ったのである。
コロナに感染した私が引きこもった部屋は、わずか6畳一間の書斎部屋だった。そこで私は自分のことをグレゴール・ザムザのようだなと思った。
『変身』では、主人公は朝起きて自分が虫になっていることに気づき、それから徐々に家族の中で無視される存在となっていく。そして最終的には消え去ってしまう。そんな物語と自分の状況が、どこか重なる部分があった。
コロナ自粛中に何よりも辛いのは、すべてのことを家族、主に妻にやってもらわなければならないことである。食事の準備から掃除、洗濯、子供の世話まで、今まで分担して乗り越えてきたことをすべて一人に任せ、負担を強いることになる。
幸いにも妻や子供にはコロナが感染することはなく、家族内感染を防ぐことはできた。しかし、その期間中、妻はかなり辛かっただろう。
私はウイルスを持っているかもしれないので、部屋に家族が入ることも許されず、会話もできない。子供の感染にも気を付けていたため、5日間は子供の顔を見ることもなかった。同じ家で生活しているので子供の泣く声は壁越しに聞こえるが、そばへ行ってあげることもできない。何の役にも立てないという無力感と、家族に迷惑をかけているという申し訳なさが入り混じる。
それでも日が経つにつれて、そういった感情も次第に薄れていき、やがて私はただその状況を受け入れるようになっていた。
その間、自分がもともといた世界から遠ざかっていくような感覚があった。そして、ザムザのように少し責任から解き放たれたような気もしていた。最初の2、3日は体の辛さもあり、何も考える余裕がなかったが、少し元気が出てきた頃から、不思議な解放感が芽生えはじめた。
これが、カフカが描こうとした感情なのかもしれない。社会から唐突に切り離されたとき、人が感じる疎外感と解放感が入り混じったような状態。日常の義務や責任から切り離されることで、人は別の視点から自分の生活を見つめ直す。
そうした出来事が、準備もなく唐突に訪れるからこそ、世界がぷつりと切断され、非日常が立ち現れるのだ。
『変身』で私が最も心を打たれる場面は、妹がバイオリンを演奏し、それがあまりにも拙いために下宿人から嘲笑される場面である。だが、虫になった兄グレゴールはその音に感動し、涙を流す。たとえ醜い姿になっても、感動する心は残っていたのだと、彼は知る。
カフカがこの小説で試みたのは、おそらく、社会的な制約や階級といった人間を縛るものから遠く離れたとき、一体何が残るのかを描くことだったのではないか。
1週間後、隔離場所での療養期間が終わり、私は元通りの日常に戻った。家族の夕食を作ったり、子供の世話をすることも再開した。そんな中で妻が「いつも晩ごはん作ってくれて、どれだけ助かっているかよくわかった」と言ってくれた。私はとても嬉しい気持ちになった。もしこういうきっかけがなければ、そんなことはわざわざ口にしてくれなかったかもしれない。
『変身』のラストで家族はグレゴール・ザムザの死から解放され、それぞれに新しい人生を歩み出す。それはとても希望の見える終わり方でもある。家族は以前は兄に頼りきりだったが、追い込まれたことで自分で生きる術を身につけるようになった。
私はコロナにかかることによってグレゴール・ザムザになったような気分になった。しかし、それは悪いことばかりではなかった。彼は最後まで虫のままだったが、私は幸いにも元の生活に戻ってきた。そうしてまた平穏無事に1ヶ月が過ぎていって、やがて暖かい季節がやってきた。先日家族と一緒に、子どもが生まれてからはじめて桜を見に行った。子どもはずっと不機嫌で、ピンク色の背景にぶすっとした表情での家族写真になった。それでも、春を迎えられてよかったと思った。
<参考>
フランツ・カフカ (著), 川島 隆 (翻訳)『変身』(KADOKAWA, 2022)