街行き村行き

明日あたりは、きっと山行き

【タイムリーな話題作を読む】クララとお日さま(カズオ イシグロ・著、土屋政雄・訳)


カズオ・イシグロ、ノーベル賞受賞後の最新作。 4月の発売以来、本屋で見かけるたびに、ひまわりと女の子の可愛らしい表紙に名作感が漂っていて、ずっと気になっていた。

テーマは人工知能とヒューマニティということで、著者がどんな未来を描いてくるのか、ワクワクしながら本書を読み進めた。

物語は、クララというAF(Artificial Friends; 人口親友)の一人称語りで進む。 ”「ショートヘアで、浅黒くて、服装も黒っぽくて」、親切そうな目を持つフランス人みたいなAF”であるクララ。 彼女は、果たして病弱な女の子ジョジーを救うことができるのだろうか。

人工知能というと、”感情を持たない存在”としてのイメージが先行するが、クララは人を観察し学習するほどに感情を豊かにしていく。 人が人工知能に求めるものは、単なる人間の代替としての”機械”から、心を癒やすための”親友”のような存在に進化していくのだろうか。

人工知能ロボットに劣等感情はあるか?

本作は敬体(ですます調)でおとぎ話のように語られる。 その体裁とは裏腹に、ディストピア小説さながらの、格差が拡大した残酷な人間社会模様も描かれる。

以下、あらすじ、引用などネタバレあり


この世界の子どもたちは、大学に入学するために「向上装置」という遺伝子編集を受ける。 ジョジーは向上装置を受け、体調が良ければオブロン端末で授業を受けるが、病弱で精神的に安定しない。
リックは成績優秀でアトラス・ブルッキング大学へ進学を望む青年だが、家庭の貧しさゆえに向上装置を受けていない。
二人は隣近所の幼馴染であり恋人のような関係で、互いに愛し合いながらも、階級社会、格差社会の闇に直面している。

一方でAFであるクララも階級をつけられている。 クララは、”最新のB3型ではなく、旧型のB2型である”ことを、子供たちの交流会でバカにされる。 ”観察と学習意欲に優れ、どのAFよりも精緻な理解力をもつ”と形容されながらも、クララ自身は最新で能力の優れるB3型と比較されることに悩む。 その様子は、学歴や成績で優劣をつけられる人間社会と似た構造でもある。

けれども、人が感じる優越感や劣等感、嫉妬心のようなものを、クララには感じ取ることができない。 そういった普通の人が「モヤモヤしてしまうような感情」を、クララが感情的に吐露する場面はほとんどない。 クララはあくまで自分の置かれた立ち位置を、客観的に観察して理解に努めようとしているように感じる。

ジョジーの病状が悪化するにつれ、母親のクリシーは変な計画を企ててパニックになる。 リックが大学に行けないとなると、母親のヘレンさんはコネを使ってでも入学を懇願するようになる。

パニックになる大人たちと比較して、クララの目はいつだって冷静に人間を観察している。 そして希望を失っていく大人たちとは対象的に、ジョジーを良い方向に導くことへの希望を失わない。

物語を通じて、私はクララの精神的な強さに圧倒された。そこでふと思った。

ロボットの方が、感情的に強く、豊かになれるとするならば、私たち人間が”人たらしめているもの”とは一体何なのだろうか。

信仰を諦めなかったクララ、信仰を忘れてしまった人間たち

クララは自らのエネルギー源である「お日さま」を熱烈に信仰している。 店に置かれている時に、ショーウィンドーから見た、”太陽の光が物乞いと犬を甦らせた”ことを原体験として、「お日さま」を絶対的な存在として認識している。 信仰とは、元来は人間のほうが持ち合わせていたものであって、これを頭脳明晰なAFであるクララが持っているという点に、私は違和感を感じた。

しかし、この物語のクララ以外の登場人物たちは、不自然なまでに”神に祈る”という行為を行わない。 まるでいつからか科学が宗教を凌駕してしまって、信仰に頼ることは意味がないと決めつけてしまったようだ。

ジョジーの父であるポールは、クララとのやり取りで、下記のような言葉を放つ。

「わたしがカパルディを嫌うのは、心の奥底で、やつが正しいんじゃないかと疑っているからかもしれない。やつの言うことが正しい。わたしの娘には他の誰とも違うものなどなくて、それは科学が証明している。現代の技術を使えば、なんでも取りだし、コピーし、転写できる。人間が何十世紀も愛し合い憎み合ってきたのは、間違った前提の上に暮らしてきたからで、知識が限られていた時代にはやむを得なかったとはいえ、それは一種の迷信だった……。カパルディの見方はそうだ。わたしの中にも、やつの言い分が正しいのではないかと恐れている部分がある。

物事の解決には科学をつきつめるしかないのだろうか。
父ポールの言葉にも葛藤が感じられる。

けれども物語でジョジーを救ったのは、「お日さま」へ祈りを続けたクララの行いだった。 祈り続けるだけではなく、「お日さま」から授かったメッセージを受取り、実行した。

クララの純粋な信仰心は、私たちにとってはあまりにまぶしい。まるで、どこかで置き忘れてしまったものを拾ってきて、忘れものですよ!と教えてくれているような、そんな気持ちになる。

クララの生き方は大成功だったのか?

物語のラスト。
クララは、ジョジーの大学進学を期に役目を終え、無残にも捨てられてしまう。 その廃棄場で偶然にも店長さんに再開し、「大成功に終わったのか?」と尋ねられる。 クララは、「実際に起きたことは、他の可能性よりはずっとよかったと思う」と慎重に言葉を選ぶように答えている。

下記のクララの言葉は、物語の核心を突いている。

「特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。だから、カパルディさんの思うようにはならず、わたしの成功もなかっただろうと思います。わたしは決定を誤らずに幸いでした。」

クララは、”ジョジーを救う”という自らに課せられたミッションを、”生きる目的”として継続した。 だからこそ、途中で大人たちがその”生きる目的”を変えようと提案しても、乗ることはなかった。

ジョジーの父ポールは、車の中でクララに、”君には詩的な意味での『人の心』はあるか?”と問うた。 ”人間一人一人を特別な個人にしている何かがあると思うか?”と自問するように問うた。
クララはその答えを、物語の中盤で既に見つけていたのかもしれない。

ロボットが、”特別な何か”、”詩的な意味での『人の心』”を理解することはできる。コピーすることもできる。 けれども、その存在そのものを代替し継続することは決してない。

言われてみれば当たり前のことだ。 けれどもこの物語は、改めて「人間を人間たらしめるもの」とは何かを教えてくれた。

私もなにかにすがりたいような気持ちになったときは、 クララがマクベインさんの納屋に向かう時の強い気持ちと情景を、また思い出すことにしょう。

<翻訳について>

今回も土屋政雄氏の翻訳で、上品な表現が素晴らしく、滞りなく読み進められました。
丁寧な翻訳に感謝し、今後もカズオ・イシグロ作品を継続して翻訳されることを願います。

2021/9/5