街行き村行き

明日あたりは、きっと山行き

【井戸に潜るということ】『ねじまき鳥クロニクル』を再読する (村上春樹・著)


10年ぶりに再読して「井戸」について考える

初読は大学生の頃だったはずなので、約10年ぶりに読み返したことになる。

村上春樹の長編小説はカチッとしたあらすじがあるわけではないので、ストーリーや結末はほとんど忘れかけていた。

ただ、綿矢ノボル、加納クレタ、加納マルタ、笠原メイ、間宮中尉など個性豊かな”奇想天外な”キャラクターたちの印象だけは強く残っていて、懐かしい友人に10年ぶりに再会したような感覚を覚えた。

ねじまき鳥といえば、”井戸に入ってじっと考え込む”という場面につきる。 この行為が何を意味しているのか、学生だった当時の僕にはよくわからなかった。

けれども、20代のうちに何度か”シンドい”と思うような場面に遭遇した時に、 自分にとっての「井戸」はどこにあるのか、と無意識に探すようになっていた。

ひとりでじっと「井戸」に潜ることによって、見えてくる世界だってあるのだ、と。

井戸から出てきた主人公に、叔父さんが語る言葉

けれども、「井戸」は根本的な解決を与えてくれるものではない。 井戸から出てきた主人公岡田トオルに対して、叔父さんが語るふとした言葉が好きだ。 ここに、叔父さんのアドバイスを3つそのまま引用してみる。

だからあえてこういう偉そうな話をするわけだけど、コツというのはね、まずあまり重要じゃないところから片づけていくことなんだよ。 つまりAからZまで順番をつけようと思ったら、Aから始めるんじゃなくて、XYZのあたりから始めていくんだよ。 お前はものごとがあまりにも複雑に絡み合っていて手がつけられないと言う。でもそれはね、いちばん上からものごとを解決していこうとしているからじゃないかな。何か大事なことを決めようと思ったときはね、まず最初はどうでもいいようなところから始めた方がいい。 誰が見てもわかる、誰が考えてもわかる本当に馬鹿みたいなところから始めるんだ。そしてその馬鹿みたいなところにたっぷりと時間をかけるんだ。


でもね、そのうちにふっとわかるんだ。突然霧が晴れたみたいにわかるんだよ。そこがいったいどんな場所かということがね。 そしてその場所がいったい何を求めているかということがさ。もしその場所が求めていることと、自分の求めていることがまるっきり違っていたら、それはそれでおしまいだ。 別のところにいって、同じことをまた繰り返す。でももしその場所が求めていることと、自分の求めていることとのあいだに共通点なり妥協点があるとわかったら、それは成功の 尻尾を摑んだことになる。あとはそれをしっかり摑んだまま離さないようにすればいい。


「でもそれだけでもない。俺は思うんだけれど、お前のやるべきことは、やはりいちばん簡単なところからものごとを考えていくことだね。 例えて言うなら、じっとどこか街角に立って毎日毎日人の顔を見ていることだろうね。何も 慌てて決める必要はないさ。 辛いかもしれないけれど、じっと留まって時間をかけなくちゃならないこともある。」

順序立てて問題を整理していくことが難しいときは、XYZと逆から始めてみるのだ。

岡田トオルと笠原メイのように、街でハゲのおっさんを数えるアルバイトをするもよし。 赤坂ナツメグのような、怪しげなオバサンと仕事するのもよし。

そうやっていろいろと試みておれば、 僕とクミコが直面したような複雑怪奇な課題の根源にまでたどり着くことだってあるのだ。

解決の糸口は、「小さな声」で語られる?

また私自身にとっての「井戸」が必要なったときは、この物語を読み直すことになるかもしれない。 そうして、加納クレタが言ったように、「小さな声」に耳を傾けてみるのだ。

良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られるです。

ただし、次に読み返すときは、 間宮中尉の語るノモンハン事件の”皮剥ボリス”のエピソードだけは飛ばして読む。 ノモンハン事件のような”人類の過去の愚行”を知ることは、大事だということはわかっている。 けれどもこのエピソードの消化は人生で1度だけで十分だ。 いくら「人間の根源的な悪との対峙」がテーマであっても、あれほどグロテスクな場面を追体験することはもうゴメンだ。

2021/7/24